見出し画像

三浦芳聖伝 59、尹良親王の謎を解く(串呂哲学研究ノート№182)

尹良親王の謎を解く

1、「尹良親王」

南北朝時代に生きた尹良親王(ゆきよししんのう)は、謎の親王といわれている。今回は、この尹良親王の謎を解いた三浦芳聖についてのお話です。

下記は、『ウィキペディア』尹良親王からの引用です。

尹良親王(ゆきよししんのう/これなが―/ただなが―、正平19年/貞治3年(1364年)[1]? - 応永31年8月15日(1424年9月7日)?)は、『浪合記』『信濃宮伝』などの軍記に見える南朝の皇族。それらの記すところによれば、後醍醐天皇の孫にして、中務卿宗良親王の皇子であり、母は井伊道政の女[2]とされる(『纂輯御系図』『浪合記』『井伊家系図』等)。父親王の討幕の遺志を継いで東国各地を転戦したと伝えられるが、その内容の信憑性が極めて乏しいため、歴史学の立場からは実在を疑問視する意見が多い。源尹良とも。

2、藤原石山氏の来訪

昭和36年(1961年)9月26日早朝、南朝史学会「史蹟と伝説」の主筆である豊橋市石巻町の「藤原彦人(丸山、石山)」氏が、三浦芳聖家を訪問し、近々著書を発行するに当ってどうしても解いておきたい疑問があるので三浦先生の神風串呂によるご教示を仰ぎたいというのでした。

川宇連神社

川宇連神社(北設楽郡豊根村坂宇場字御所平69-1)

その内容は【長野県下伊那郡浪合村で遭難薨去されたと伝える「尹良親王」は、愛知県北設楽郡川宇連(かうれ)にも「尹良神社」として、お祀りしてあるが、此の御方は元老院 纂輯御系圖(さんしゅうごけいず)には「宗良親王王子」となっていますが、私が多年に渉って調査した結果は三河地方に於ける南朝方の者は皆この親王様を奉戴している様であり、宗良親王の御事績を調査しても、こんなに忠臣の方々が付いていない。特に花山院長親の子孫の人々迄皆この「尹良親王」を奉戴しているので、これは或いは「長慶天皇」の別名を「尹良」と申されたのではなかろうか?と思い、三浦先生の御教えを受けに参上した】との事でした。

芳聖は、軽々しくお答えできないから、串呂で研究し調査し御神示を仰いだ上でご返事しますと申上げ、藤原さんに帰って頂き、一心に祭祀をして御祖大神に御教示を仰ぐと、「長慶天皇ではない!」との御神示でした。

芳聖が、「では尹良親王はどなたの事ですか?」と御教示を仰ぐと、「神風串呂をもっとよく研究せよ!」との御神示でしたので、地図を広げて研究したのですが、的確な串呂が解明できませんでした。

(三浦芳聖著『神風串呂第十二編』1~2頁要約/1961年10月)

3、尹良親王の謎を解く

(1)竜巻に依る串呂の解明

そこで、三浦芳聖は、翌27日9時から祭祀を開始して10時30分に終了し、引き続き「尹良親王の御正体をはっきりとさせて頂くために的確な場所に極めて最小限に止めて竜巻を起して頂きたい」と念じ、竜巻を興す秘法を厳修した処、岐阜県不破郡垂井町表佐で竜巻が起きました。

表佐

芳聖が、当日の夕刊に出ていたのを確認したところ、竜巻は「表佐から綾戸の方へ向かい一軒の小屋が60メートルほど吹き上がり、また紡績工場のガラスが100枚ほど破れた」という記事が出ていました。

そこで、芳聖は、この「表佐竜巻現場」と尹良親王が戦死したと伝えられる長野県下伊那郡浪合村の「浪合」(現在阿智村)とを結んで両方へ延長した処、下記のような串呂が解明されました。

表佐竜巻現場と浪合との神風串呂

浪合
表佐竜巻浪合

大宝(島・雲南市)-天王(岡・真庭市蒜山上徳山)-阿弥陀山(滋賀県高島市)-表佐竜巻現場(岐・不破郡垂井町)-河合(岐・土岐市泉町)-市原(岐・瑞浪市土岐町)-浪合(長・下伊那郡阿智村)-卍身延山久遠寺(山・南巨摩郡身延町)-一宮町(千・長生郡)

尹良親王墓

 尹良親王の御陵(宮内庁所管)

尹良親王と云うのは大宝天皇の別名である。しかし浪合では大宝天皇の身代りがお亡くなりになって、第一皇子・大宝天皇は河合村(切越)へ逃れ、長く久しく延命して長生遊ばされた。88歳で崩御。
*表佐は、影武者が面を飾って犠牲となり、本命を(助)けると云う意味です。表(おもて)には「うわべ、外見」の意味が有ります。

(三浦芳聖著『神風串呂第十二編』2~5頁要約/1961年10月)

(2)大鵬幸喜と大宝天皇

三浦芳聖が、尹良親王の御正体を解く為に「竜巻を起す秘法祭祀」を厳修した1961年(昭和36年)9月27日、大鵬関の横綱昇進が決定しました。(9月24日が千秋楽で、同点決勝で柏戸関が優勝しました。)

大鵬関

大鵬横綱は1940年(昭和15年)5月29日生れで、本名は納谷幸喜(なや こうき)と言い、干支は六白金星庚辰です。所属は二所ノ関部屋でした。

大鵬(たいほう)は大宝(たいほう)に通じ、幸喜(こうき)は「ゆきよし」と読める上に、芳聖が「竜巻を起す秘法祭祀」を厳修した当日に横綱昇進が決定した事で、尹良親王の正体は大宝天皇であるという第二のヒントになったと云うのであります。

(三浦芳聖著『神風串呂第十二編』2~5頁要約/1961年10月)

【参照】大宝天皇(美良)号宗心・後称三浦藤太夫(№13)

(3)二男起義(ゆきよし)様と大宝天皇

三浦芳聖は、名古屋市御所町で誕生した芳聖の二男(故人)「三浦敏正・昭和12年(1937年)九紫火星丁丑年生れ、通名・起義(ゆきよし)」の生年と名前が第三のヒントになると述べています。

二男敏正様は、芳聖が支那事変に応召するに当たり、牧平町大門の氏神様(豊富神社)へ参拝している時刻に名古屋市御所町の三浦家に於て誕生されました。

戦後、御神示を仰いで付けた名前が「起義・ゆきよし」で下記の串呂が解明されています。

宗心(東かがわ市)と三浦起義様出生地(名古屋市)との神風串呂

画像4

(三浦芳聖著『神風串呂第十二編』7頁/1961年10月)

宗心(香・東かがわ市入野山)ー大宝(愛・海部郡飛島村)ー三浦起義様出生地(名古屋市御所町2-9)ー生子(茨城県坂東市生子)

飛島村大宝

芳聖の二男、三浦敏正(起義・ゆきよし)は、大宝天皇(宗心)と同魂同霊である。

起義(ゆきよし)様の生年の昭和12年(1937年・九紫火星丁年)は大宝天皇崩御の文明13年(1481年・六白金星辛)と丑年が共通しています。

また、三浦芳聖の父・三浦市次郎様は、明治7年(1874年・九紫火星甲戌年)生れ大正2年(1913年・六白金星癸年)帰幽で、大宝天皇の生年甲戌年と崩御年の辛年が共通していて大宝天皇と同じ宗心を号とし、戒名も無学宗心居士と宗心が付いています。

無学とは、これ以上学ぶ事が無い程徳が高いという意味の仏教用語です。

大宝天皇  三碧木星甲戌年生れー六白金星崩御 号宗心
三浦市次郎 九紫火星甲戌年生れー六白金星帰幽 無学宗心居士
三浦起義  九紫火星年生れ

(三浦芳聖著『神風串呂第十二編』2~5頁要約/1961年10月)

【参照】「牧平大門」と「三浦名」との神風串呂 (№7)

三浦名

宗心(東かがわ市)-一色-大宝天皇蒙塵の地・牧平大門-天神谷-大久保-加茂-三浦名  *大宝天皇(宗心)が三浦と名乗った。

かがわ市宗心

東かがわ市「宗心」

【参照】雲南市の大宝と新見市の天王の神風串呂 (№12)
大宝(雲南市)ー天王(新見市)ー宗心(東かがわ市)*大宝天皇は宗心。

(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』290頁)

また、下記神風串呂の「卍正壽寺」は、正壽(しょうじゅ)が「まさとし」と読めるので、敏正(としまさ、起義・ゆきよし)様と共通しています。

【参照】天子ヶ岳と中部国民道場との神風串呂(№146)

歌垣山天子ヶ岳

歌垣山(能勢町)ー大宝(栗東市)ー市子殿町(東近江市)ー御衣野(桑名市)ー三浦起義様出生地(名古屋市昭和区御所町)ー卍正壽寺(豊田市)ー天子ヶ岳(富士宮市)*草津市大宝は栗東市大宝と訂正しました。

(三浦芳聖著『神風串呂の解明』36頁、1965年1月1日発行)

黒田の「正壽寺」は、大宝天皇の御座所(御所)であり、同寺の遺品が間違いなく大宝天皇の御物である事を昭示すると共に、中部国民道場長・三浦芳聖は、大宝天皇(美良)の直系皇孫で、三浦市次郎様は大宝天皇の再現であり、名古屋市御所町で誕生した三浦敏正(起義・ゆきよし)様は、大宝天皇の再現である事が昭示されている神秘的な神風串呂です。

また、私(編集者・鈴木)の知人で、ブライアン・ワイス博士の前世療法(退行催眠)で、大宝天皇の過去世がある事が判明した方がいます。

その方のお名前は「○○敏美」様で、正と良(大宝天皇の忌み名)を足して2で割ったようなお名前で、容貌も三浦敏正(起義・ゆきよし)様とよく似ています。

敏美様の前世療法(退行催眠)で大宝天皇の降誕地京丸や終焉の地牧平大門での生活の様子が少し解っていますが、今後もいろんな事が判明すると思います。

4、結語

尹良親王については謎が多く、まだ全貌が明らかになった訳では有りませんが、大宝天皇が敵の眼を晦ます為に、尹良親王と名乗っていた事は間違いないと思います。

宗良親王の王子「尹良親王」と大宝天皇の別名「尹良親王」のお二方があったのかも知れません。恐らくそうだと思います。

大宝天皇の御名「美良」に雪を被せて雪良(ゆきよし)と雪でカムフラージュして、神皇正統の天子である事を隠していたのだと思います。これを忍法「雪隠(せっちん)の術」と云うのだそうです!?

なお、この尹良親王については、下記の資料も有ります。

後醍醐天皇次稲若親王七代後胤姓者源也但稲若親王者天皇御孫尹良公ト申也故有ッテ親皇ト奉崇(愛知県岡崎市藤川町森川家所蔵「森川家伝記」)

【参照】詳細はこちらをご覧下さい。
興国天皇 (守永・もりなが) 7、森川系図他古記録、伝説より


前号(№181)       次号(№183)

串呂哲学研究ノートバックナンバー(総合)

情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

**********************************

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
**********************************
最後までお読みいただき有り難うございます。Facebookグループ 串呂哲学研究にご参加下さい。アップデートがすぐに分かります。
https://www.facebook.com/groups/462542897709938/
グループだけの最新情報もあります。
**********************************


いいなと思ったら応援しよう!

串呂哲学研究ノート(鈴木超世志)
串呂哲学研究ノートは、読者の皆様方の財政的ご支援により活動が維持されています。理解しやすい記事作成のために諸般の費用が掛かります。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。読者の皆様方のご支援に感謝しています!