💟三浦芳聖の降誕地-仮寓地-ありし日の三浦芳聖家を貫く神風串呂
🎀串呂哲学研究ノート 第42号
1、三浦芳聖師の符号「正善」(坂井市)について
福井県坂井市春江町に「正善」(しょうぜん)という地名があります。国内唯一の地名です。この「正善」は、「まさよし」と読めるので、串呂哲学上の三浦芳聖の符号とされ、この「正善」に関する串呂が解明されています。
正善(まさよし)=善正(よしまさ)=芳聖(よしまさ)という論理です。串呂哲学では、これを「上下転換語」と言っています。これまでご紹介した串呂では「黒田=田黒」がありました。
この「正善」に関する串呂をご紹介しながら、「正善」が三浦芳聖の符号であることを立証していきます。
今回は、「正善」と三浦芳聖師の「降誕地」「仮寓地」「ありし日の三浦芳聖家」が一直方角線上に並んでいる神秘的な串呂をご紹介します。
神風串呂は、串呂の主宰神が設計された青写真に基づき、幾何学の如く精密で論理的に構築されていることが理解されると思います。
2、串呂哲学の理解を助ける予備知識
始めての方は、下記の記事を参照してください。
3、三浦芳聖師の降誕地-仮寓-ありし日の三浦芳聖家を貫く神風串呂
三浦芳聖師は、「正善」(福井県坂井市春江町)と「ありし日の三浦芳聖家」(愛知県豊川市諏訪二丁目)とを串線すると、「正善」「降誕地」「仮寓地」「ありし日の三浦芳聖家」を貫く、次の様な神風串呂になると述べています。
「正善」(坂井市)-「天神」(福井市)-「大門」(山県市)-「天王町」(豊田市)-「三浦芳聖降誕地」(岡崎市)-「三浦芳聖仮寓地」(豊川市萩町)-「ありし日の三浦芳聖家」(豊川市諏訪二丁目)
(三浦芳聖著『神風串呂』第177号61頁、現住所に改め、一部新たな研究成果を盛込んだ。)
【地文のみ掲載】
「正善」-「天神」-「大門」-「天王町」-「三浦芳聖降誕地」-「三浦芳聖仮寓地」-「ありし日の三浦芳聖家」
【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)正善(しょうぜん、福井県坂井市春江町)
正善は、「まさよし」と読めるので、三浦芳聖(みうらよしまさ)師の串呂上の符号とされています。正善(まさよし)=善正(よしまさ)=芳聖(よしまさ)という論理です。
三浦芳聖(みうらよしまさ)師の串呂上の符号には、「善正町」(ぜんしょう町/大阪府和泉市)と「正善」(しょうぜん、福井県坂井市春江町)があります。
善正は「よしまさ」と読めるし、正善はその上下転換語で「まさよし」と読めるからです。
(2)天神(てんじん、福井県福井市篠尾町)
天神地祇(てんじんちぎ)の天神で、天津神(あまつかみ・天孫)をあらわす地文。『ウィキペディア(Wikipedia)』天津神・国津神
(3)大門(だいもん、岐阜県山県市)
大門(だいもん)は、「おおみかど」と解読します。大御門(おおみかど)=大帝(おおみかど)=天皇(または皇居)という意味と解釈します(5)の牧平大門とで、大門二串の確定立証の串呂を構築。
(4)天王町(てんのうちょう、愛知県豊田市)
天皇に同じ。
(5)三浦芳聖降誕地(こうたんち、愛知県岡崎市牧平町大門)
三浦芳聖師は、明治37年(1904年)9月17日午前6時、愛知県岡崎市牧平町大門で生まれた。(3)の山県市大門とで大門二串の確定立証の串呂を構築。
大門(だいもん)は、「おおみかど」と解読します。大御門(おおみかど)=大帝(おおみかど)=天皇(または皇居)という意味と解釈します。
【参考】三浦家の系図によれば、大宝天皇は、享徳3年(1454年)愛知県岡崎市牧平町大門に移住し、皇后 三浦佐久姫の姓を名乗り、三浦藤太夫と称した。牧平町大門は天照大御神が五皇一体の八幡大明神の降誕予定地として指定された「日本天皇蒙塵(もうじん)の地」であり、大宝天皇以降、三浦家累代 450年間の住居であり、三浦芳聖師の御降誕地であります。
(6)三浦芳聖仮寓地(愛知県豊川市萩町上近久5番地の2)
「愛知県豊川市萩町上近久5番地の2」は、三浦芳聖師が、昭和20年(1945年)2月4日より昭和25年(1950年)8月13日までの「5ヶ年半」住んでいた仮寓地。
昭和20年1月3日の米軍機(B29)による名古屋大空襲で、名古屋市昭和区御所町にあった三浦芳聖師が経営する「中部国民道場・兼自宅」は、丸焼けと成り灰燼に帰しました。
この日、愛知県碧海郡明治村和泉(現在の安城市和泉町)での大政翼賛会の練成中、三浦芳聖師は、霊感神示により空爆を予知して「中部国民道場・兼自宅」へ駆けつけたが、火炎に包まれた道場の二階から辛くも持ち出すことの出来たのは、天津神・国津神・祖霊舎のお社(やしろ)と頭山満が揮毫した「忠節」の掛軸だけで、あとは一物も残さず灰燼に帰しました。
そのため、三浦芳聖師は妻と4人の子供を伴い、遠祖・松良天皇の先蹤に倣って愛知県豊川市萩町上近久5番地の2に疎開しました。この仮寓地の住居は、山中の元温室の番小屋でした。
(7)ありし日の三浦芳聖家(愛知県豊川市諏訪二丁目)
三浦芳聖師は、昭和25年(1950年)8月13日より昭和46年(1971年)3月30日に帰幽するまでの約20年半、豊川市市田町諏訪林37番地(豊川市諏訪二丁目)に居住し、神風串呂講究所を開設して、神風串呂を解明し公表した。
三浦芳聖師の終焉の地でもある。
三浦芳聖師は、戦後、御祖大神(みおやのおおかみ)の御神諭に従い、南朝正統家の嫡孫であると発表したため、官憲の弾圧を危惧する村人達の圧力で、萩村に住んで居れなくなり困っていた所、門人 古澤武雄氏の厚意で、昭和25年(1950年)8月13日、豊川市市田町諏訪林37番地に転居しました。
不思議なことに、雨露がしのげる所ならどこでもよいと、切迫して転居した豊川市市田町諏訪林の地(諏訪二丁目)は、神様が用意して下さった最高の天地でした。
【参照】詳細はこちらを参照ください。
4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察
正善-天神-大門-天王町-三浦芳聖降誕地・牧平大門-萩の五ヶ年半仮寓地-在りし日の三浦芳聖家
殊に「在りし日の三浦芳聖家」(豊川市諏訪二丁目)に転居した時の経緯を見ると、官憲の弾圧を危惧する村人達の圧力で萩の仮寓地に住んで居れなくなり、事前の計画が全くないまま転居した住居である点、串呂主宰神の設計に基づく青写真のまにまに展開したというほかありません。
ここからも、神風串呂が、串呂の主宰神が設計された青写真に基づき、幾何学の如く精密で論理的に構築されていることが理解されると思います。
三浦芳聖師は、串呂を解明する為にこの世に派遣された串呂台ですから、このような串呂の標本のような現象が展開したのだと思います。
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💌イエローハットの創業者であり、NPO法人「日本を美しくする会」の
相談役でもある鍵山秀三郎氏の言葉
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🟠情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。
ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
著者 鈴木超世志のプロフィール
中学一年満13才の時、神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師に師事し爾来60年間、
串呂哲学(神風串呂)を研究して来た老学徒。1950年愛知県生れ74才。
串呂哲学研究家。串呂哲学研究会代表。神社本庁神主、元高校教諭。
著 書
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など多数
ブログ
串呂哲学研究ノート
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
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メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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