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三浦芳聖伝 8、京都の学生時代(2)(№122)

🎀串呂哲学研究ノート 第122号

京都の学生時代(2)

1、中根正親先生の薫陶を受ける

芳聖は、多感な青春時代、この偉大な中根正親先生のもとで多くのことを学び、豊かな人格形成をするのですが、先ず第一に芳聖は「人間愛」を学んだと思います。

中根正親
前列中央、中根正親先生『中根正親先生回想録』巻頭写真、1986年出版

中根正親先生は当時、全国から集まってくる苦学生たちを我が子のように愛し、親身になって愛育していました。それが出来たのは中根先生自身が、苦学して三高・京都大学に学び、裸一貫、ゼロから私学を立ち上げた苦労人だったからです。

中根正親先生は優秀な三浦芳聖を特別に愛し、厳しいお寺の生活で凍りかけ、やや萎縮していたであろう芳聖の心に、肉親ですら到底及ばぬ、暖かい愛のそよ風を吹き込んで、豊かな人格形成を可能ならしめました。芳聖の著書から引用します。

 私は苦学していて昼食を食べるだけの余裕がないので、昼食の時間に運動場に出て待っていると、そこへ「中根正親先生」が廻って来られて、「三浦はなぜご飯を食べないのか」「はい、私は二食主義であります。」「そうじゃないだろう。お前は調べて見ると苦学をしている。二食主義じゃない。食べられないのだろう。よし、明日から俺のパンを半斤やるから食べなさい。」と言われて中学四年の時、まる一年間この「中根先生」がパン半斤をお与え下さいました。  
 そして五年の時には、アルバイトを御斡旋下されましたので、もう新聞配達もせずに、その月謝で私は無事卒業することが出来たのであります。それから更に先生のお蔭で、私は英語の教師をしながら専門学校を卒業することが出来ました。実に私にとって大恩師であり、しかも大恩人であります。だから時々先生を御訪問して謦咳に接してきたのであります。
(三浦芳聖著『神風串呂』159号17~18頁、1969年2月28日発行)

中根先生のお蔭で、芳聖は、京都生活2年目から新聞配達苦学生の境涯を脱して、上級学校へ進学を希望する生徒32名に、下宿先の藤田家で毎夕2時間ほど教えるだけで、学生生活を継続する事が出来るようになりました。

第二に芳聖は「独創性」を学んだと思います。

その頃、中根先生は当時の教育界の常識を打ち破るユニークな教育を次々と実践していました。多感な芳聖はそうした独創的な考え方、研究法、実践法などの真髄をしっかりと学び取りました。

その証拠に、芳聖は、後年、中根先生が創案し実践していた「英語訳学解析法」(後にブランク・イングリッシュと呼ばれる)を、更に実用的なものに発展させて、ペンネームで『三浦の英語訳学解析法』という受験参考書を出版しました。

この受験参考書の出版は、専門学校生時の大正10年に準備をしていたという記録がありますので、大正10年か11年頃の発行だと思いますが、以後昭和8年まで、14年以上にわたる超ロングセラーでした。

第三に芳聖は「情操教育」を学んだと思います。

当時の両洋学院は、世間から「音楽学校」と言われるくらい音楽教育を重視し、全生徒にヴァイオリンを一台ずつ持たせ、中根先生自ら指導するというユニークな学校でした。中根先生はヴァイオリンを独習したそうです。

この音楽教育を通じて芳聖は、豊かな情操を養成することが出来たと思います。明治生まれの芳聖はヴァイオリンの名手でした。

第四に芳聖は「舞台芸術」を学んだと思います。

中根先生は中学生による演劇の産みの親ともいうべく、大正9~12年頃、両洋学院の学生および卒業生を中心にした学生演劇を指導していました。台本は、中根先生の創作による新劇で当時の人々の注目を集めていました。

芳聖もこの演劇活動の中心的存在として参加し、豊かな舞台芸術を学びました。それは京都市の三条青年会館や岡崎公会堂を借りきって大勢の観客の前で公演するという本格的な演劇で、当時の女学生に人気がありました。

広島の原爆で亡くなった有名な性格俳優「丸山定夫」(明治34年愛媛県生まれ)は、この時、芳聖と一緒に学生劇を演じた両洋学院の仲間と聞いています。

大正10年6月26日に京都市岡崎公会堂で開催された学生劇のことが当時の京都日々新聞に載っています。新聞紙上を騒がすほど両洋学院の演劇公演は有名でした。

芳聖が弁論大会で大活躍した話も残っています。この弁論大会は、大正10年に、京都学生連盟主催・各新聞社の後援で京都市左京区岡崎の公会堂で開催されました。

芳聖は「光は東、亜細亜より」の演題で堂々たる態度で登壇、よく通る声で弁舌さわやか、その内容は時勢にマッチした日本の若き学生等が進むべき道を順々と説きひらき、満堂を席巻しました。その結果は各府立中学、立命館、同志社を抑えて最優秀賞獲得でした。指導者の弁論部長は先生の弟「中根正世先生」でした。(『中根正親先生回想録』103頁要約、1986年出版)

第五に芳聖は「反骨精神」を学んだと思います。

中根先生は大正7年当時、京都帝大の工学部で土木工学を専攻する学生でもありましたが、3月、文学博士、新村出教授の推奨により京都帝国大学言語学会に於いて「英語訳学解析法」を発表したのがもとで、国立帝大の秩序を乱すという理由で、工学部長から退部を申し渡されました。

普通なら、教授に詫びを入れるとか、他の学部へ転部したりとかする所ですが、中根先生は「工学部の学生が文学部の言語学会で研究発表して何が悪いか!」と、自分の信念に従って京都帝大を自主退学したのでした。

折角入学した京都帝大を、自己の信念を貫くため、退学を以って対抗すると云う勇気ある行動、これは誰にでも出来る事ではない反骨精神です。

芳聖はこの両洋学院の偉大な教育者、中根正親先生に学ぶ事によって良い意味の反骨精神を学んだと確信しています。

こうして芳聖は、富永老師との約束どおり中学を2ヶ年で修了し、仏教専門学校に進学しました。芳聖は両洋学院で英語の講師をしながら3ヶ年の専門学校を終えるまで、中根先生のもとで学問のみならず、人生そのものを学んだと思います。


2、仏教専門学校に入学

両洋学院を2年で終えた芳聖は、鹿ケ谷の「仏教専門学校」に入学し、宗教、哲学を専攻しました。現在の佛教大学です。

仏教専門学校での芳聖の学問の中心は、宗教・哲学、とりわけ芳聖が僧侶として所属していた浄土宗西山派の浄土教学でしたが、向学心あふれる芳聖はそれだけに留まらず神儒仏耶の諸宗教、東西両洋の宗教・哲学を次々と研鑚し、万巻の書を次々と読破しています。

芳聖の向学心というか学問への取り組み方は、今の学生のように講義を聞いて単位を取るというような半端なものではありませんでした。以下は、芳聖の著書からの引用になります。

(中学校に)通学の傍ら、石黒観堂師に宗乗学しゅうじょうがくを、井口泰温いぐちたいおん師に余乗学よじょうがくを、山本窺園やまもとけいえん師に漢学を、小田垣蘇堂おだがきそどう師に国学を、ミスサウター師に英語を毎週一回宛、各邸へ参上して教えを乞い、大正九年中学を卒業後、仏教専門学校に進学、学業の傍ら更に進んで神儒仏耶しんじゅぶつやの諸宗教を研鑽し(後略)

(三浦芳聖著『姓名鑑定秘法』6頁、旧漢字は新漢字に変換し、誤記を訂正しました。)

上記引用にあるように、当時の碩学(学問の大家)の弟子となり、直接個人教授を受けているのです。ミスサウター師は、両洋学院の英会話の先生でした。大正時代に両洋学院にはネイティブスピーカーの先生がいたのです。ですから中根先生も芳聖も英会話が出来ました。

*コラム・超世志のここだけの話
芳聖は、専門学校時代の大正10年(1921年)数えの18歳の時、神戸で「ワシントン海軍軍縮条約締結反対」の街頭演説を英語で実施しています。米英:日:仏伊の保有艦の総排水量比率を5:3:1.75と定めた条約は不公平で、日本の国益に反し、国家安全保障上に禍根を残すという主張です。芳聖は、日本初の学生による政治運動ではないかと述べています。

3、芳聖の初恋

(1)小田垣家の養子話

🟡英語訳学やくがく解析法かいせきほうの研究発表

大正10年(1921年)7月、京都府教育会館で中根正親先生の創案による「英語訳学やくがく解析法かいせきほう」の研究発表会が開催されました。

英語訳学やくがく解析法かいせきほうとは、意味を有する単語の代わりに ▢(ブランク)を用いて英語の構文を表現し、英語の五文型を理解する方法。後に ▢English(ブランク イングリッシュと命名された)。
(1)SV=▢ do.   ▢ is.   ▢ come.など
(2)SVC=▢ is ▢.   ▢ become ▢.   ▢ feel ▢.
(3)SVO=▢ has a ▢.  ▢ make a ▢.
(4)SVOO=▢ give ▢  a ▢.
(5)SVOC=▢ keep the ▢  ▢.

芳聖が両洋学院のOBとして研究発表した所、そのことを報じた新聞記事がきっかけになって、小田垣蘇堂おだがきそどう博士他の方々から、優秀な芳聖に是非、養子になって貰いたいと言う養子縁組のはなしが舞い込みました。

🟡小田垣蘇堂おだがきそどう博士

その中で一番熱心だった小田垣博士は、本名を彦三郎といい、この博士が学長になれば必ず文部大臣の認可が取れるという、大正10年(1921年)当時の教育界の重鎮で、その為に立命館も京都成安女子学院も両洋学院も認可取得の為に一度はこの小田垣博士が学長になられました。

この博士が大正10年の7月頃から8月、9月と芳聖の若王子町の下宿へ何度もやって来て、次のように口説かれました。

私は子供が無いので、東大の教授をしている甥の娘を貰う事にして、只今京都へ連れて来て高等女学校に通学させている。優秀な貴君には是非養子になって貰い、第三高等学校、京都帝国大学、大学院、外国留学と学問を修め、将来我が国の学会の大物となって頂きたい。貴君の如きを埋めておくのは日本の損失だ。

🟡養子の縁談を断る

普通の場合なら大出世で、それこそ「二つ返事」で養子になる所ですが、芳聖は、養育して貰ったお寺への義理がある上に、尊良親王の再現としての誇りがあったので、「私は他家の養子にはなりません!」と、再三お断りしました。

しかし、小田垣博士は熱心で、何度も何度も人力車に乗って芳聖の下宿へ通って来られるので、芳聖は、「実は私は、後醍醐天皇第一皇子、尊良親王の生れ変わりで、尊良精神で生きています。どんなに生活が苦しくても他家の養子にはなりません!」と、降誕にまつわる由来話をしました。

(2)小田垣清子さんと婚約

🟡御匣殿みくしげどの再現 小田垣清子

すると小田垣博士は、がっかりして悄然しょうぜんとして帰って行かれましたが、その翌日又やって来て、文献史料を調べた所「貴方の前世の尊良親王妃の名前は西園寺公顕の女「清子」(御匣殿みくしげどの)で、うちの養女「清子」と全く同じ名前だ!

しかも干支も丁未ひのとひつじで全く一緒で偶然とは思えない。あなたが尊良親王の再現なら、うちの清子は尊良親王妃(御匣殿みくしげどの)の再現だ!是非小田垣家の養子になってもらいたい」と言って来られたのです。

🟡小田垣博士の要請を受け入れ小田垣邸に転居

芳聖は、この「小田垣清子」の出現に、前世の因縁を感じ、この話に大変心を動かされたのです。

京都へ来てからの生活費も学費も誰の世話にもならず、全部独力でまかなって来たのだからと、芳聖が中根正親先生や山本窺園けいえん先生に相談したところ、

「是非、小田垣先生の要請を受け入れて、大学者になってくれ給え!」との事で、芳聖は、大正10年(1921年)9月、下宿先の藤田家から左京区黒谷町の小田垣邸へ転居したのでした。

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京都市左京区(地図マピオン)

🟡小田垣清子と婚約

左京区黒谷町の小田垣邸には、小田垣博士ご夫妻、清子さんの他に家庭教師、書生、上下の女中がいて、「若様」となった芳聖は、立派な書斎と寝室が与えられました。

そして大正11年(1922年)の正月元日、芳聖は数えで19才、清子さんは16才になった祝膳の席で、小田垣先生御夫妻から「二人は将来夫婦となって小田垣家の家名を挙げ御国のために尽すように!」と婚約の宣誓をさせられました。芳聖は清子さんと婚約したのです!

🟣芳聖は清子さんと婚約したのです!💓💝💖

(3)富永老師の横やりで婚約解消

🟡母元子が説得

ところが、この養子縁組の話を聞いた富永老師が「お寺で養育して貰った恩は忘れたのか。将来お寺へ帰って来て末寺の住職になって貰わねば困る、養子にはやれない。」と反対し、

芳聖の母・元子さまがお寺の代弁者となって「母危篤、すぐ帰れ!」の電報で芳聖を名古屋へ呼び寄せ、「小田垣邸を出て養子縁組を解消しなければ母はのどを突いて自害します!」と説得されたので、芳聖は、仕方なく婚約を解消して小田垣邸を出て、元の藤田家の下宿に戻ったのでした。

これも串呂主宰神の青写真では、芳聖は、将来、日曜院の住職になる計画だったので、こういうことになったのだと思いますが、失恋もまた人生勉強のひとつでした。

🟡一生独身を誓った小田垣清子さん

芳聖を将来の夫と心に誓った清子さんは、嘆きの余り別れる時に「私は一生結婚しない!」と言われ、その言葉通り、後に来た養子を嫌って東京の実家に帰り、別の男性と結婚したのですが、昭和20年(1945年)39才で病死しました。肺結核でした。😭😭😭

🟡東京の明治法科大学に進学

さて大正12年(1923年)3月、芳聖は夢多き多感なる5ヶ年間の京都での学生生活を終え、郷里に帰ってお寺の住職となり母親と弟妹を引き取ろうとしたのだが、母元子は、この申し込みを受け入れず、学問するよう勧めたので、芳聖は東京の明治法科大学へと進学しました。

4、志学の神風串呂

三浦芳聖が、向学の念止みがたく、数えの15歳の春3月、青雲の志を抱いて上洛し、学問を修めたことを昭示する「志学の串呂」が解明されています。


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🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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