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南朝正統皇位継承論18-大宝天皇(美良)その壱

大宝天皇(美良)その壱

三浦芳聖の著書によれば、「最後の内伝の天皇である大宝天皇(美良親王)は、応永元(1394) 年、遠州京丸に於て松良天皇とその皇后綾子姫の第一皇子として降誕し、応永17(1410) 年、三州萩に於て松良天皇より譲りを受けて践祚、永享10年戊午(1438)年、三州切越に隠棲し、爾来16年間大般若六百巻を念書し、至誠通神、享徳3(1455)年、天照大御神から御神諭を賜って牧平大門に移住し、三種の神器を地下深く埋蔵して天之岩戸籠りとし、皇后三浦佐久姫の姓を名乗って三浦藤太夫と称した」とあります。

【参照】大宝天皇(美良)号宗心・後称三浦藤太夫(№13)

1、永享七年浪合遭難事件

この大宝天皇が、永享10(1438)年、三州切越に隠棲するまでの経歴は内伝の天皇ゆえに超極秘で殆ど不明ですが、南朝史学会の藤原石山氏の考察によると、大宝天皇は、永享7(1435)年、南朝王子「良王」の一行に同道していて浪合村遭難事件に遭遇したと述べています。

浪合村は、信州塩尻から伊那谷を通って三河岡崎に抜ける三州街道(国道153号線)の途中にある村で、応永3年、応永31年、永享7年の3度にわたり宮様の遭難事件があった場所で、応永31年には尹良親王が御自害されたとし、御陵と神社が建立されています。

『ウィキペディア』浪合村には、下記の様に記されています。

 四方を1,000m級の山々に囲まれた谷間の村である。村内を三州街道(国道153号)が縦貫している交通の要衝で江戸時代には関所が置かれていた。
 天野源蔵の『浪合記』によると、室町時代の元中2年/至徳2年12月朔日(1385年1月)に、尹良親王(南北朝時代の後醍醐天皇の孫、宗良親王の皇子)が、三河国を目指すために世良田政義・親季・義秋・政親(世良田氏一族)ら新田氏の残党とともにこの地で戦死したとする(浪合の合戦)。

浪合
長野県下伊那郡阿智村  浪合(地図マピオン)

良王とは、宗良親王の第二皇子・尹良親王の王子で母は世良田政義の女。良王は、永享5(1433年)年、上野国新田邑寺尾城を出発し、下野国落合城に入り、準備を整え三河の国へ向かった。笛吹峠に差し掛かった時、上杉の兵に遮られたので木戸河内守の城に入り、上杉の兵が引き上げると諏訪市中洲の地久五郎の金子城に移り、ついで神峯城へ入った。

そこへ世良田政義の次男世良田政親と桃井貞綱が来て、三河の政情が不安定となったので予定を変更して尾張国海部郡の津島へ向かう事になったと連絡があり、永享7(1435年)年12月1日、良王は浪合に入った。

詳細は『浪合記』の「良王君伝(現代語訳)」を参照下さい。

藤原石山氏は、永享7年遭難の王子について下記の様に述べています。

 永享七年十二月浪合で土俗に襲われた王子に二説あり、一説は、尾張の津島に逃れた良王で又一説は三河の作手に逃れた良王と二通りの伝えがある。
 三河の作手に逃れた王子は、長慶院寛成親王の皇女の生む王子で、美良親王と称し南朝最後の天皇で大宝天皇と尊称した。永享八年二月、平井加賀守広利が公方家の命により、三千の兵を卒いて三河遠江に来り新田の余族を狩り求めた。その時、世良田(徳川)政義、桃井(大河内)満昌、児玉(奥平)貞政が捉えられて京へ送られた。
 王子は、作手を下り宮崎村の室河内や妙慶を経て河合村(現在岡崎市)の山中切越に隠棲すること十六年、享徳三年、牧平大門に移り、三浦藤太夫と称した。
(藤原石山著『続南朝正統皇位継承論-尹良親王の伝説』6頁、読点を補い誤植を訂正した。平井加賀守が広利公方家→平井加賀守広利が公方家)

この藤原石山氏の考察には天野信景著『浪合記』、『信濃宮伝』及び三浦家の伝承及び地元に伝承される口碑などが資料になっていると思われます。

【参照】『ウィキペディア』河合村 (愛知県)

河合村

『浪合記』に出ている王子の名前は「良王」だけで、この王子は三河国鳴瀬村(足助町成瀬)、吉良の正行寺(西尾市)を経て尾州津嶋の大橋定省の奴野(ぬのや)城へ入り津島神社の神主に納まり、四家、七名字、宇佐美、開田、野々村、宇都宮の15将は津島に土着しました。

津島神社
愛知県津島市  津島神社(地図マピオン)

ところが、良王一行に同道して来た世良田政義、桃井満昌、児玉貞政(広)の3将を始め『浪合記』に記されている16将の内10将が三河各地に土着しているのです。

【参照】諸国宮方武士(浪合記7)

大宝天皇蒙塵の府「岡崎市牧平町大門」に隣接している岡崎市樫山町の青山家(青山師重の子孫)や、三浦佐久姫の父、富士大宮司・三浦宗明(時晴)も『浪合記』には記されていませんが、大宝天皇と共に良王一行に同道していたものと思われます。

【参照】花山院師賢-信賢-師資-青山師重

こうした状況証拠で、もう一人の良王(大宝天皇)が三河に存在したと考えられ、浪合で遭難3年後の「永享10年戊午(1438)年、三州切越に隠棲し」(三浦家系図)により上記の結論に至ったものと思われます。

また、時の政権、足利将軍義教は、三河の探索は命じますが、尾張津島の神主となった「良王」を攻めることは有りませんでした。

【参照】天野信景著『浪合記』現代語訳 『信濃宮伝』現代語訳

藤原石山氏は、良王は、大宝天皇の身代わりの王子だったと述べています。

 津島に逃れた良王は、尹義王の子で幼名を良王丸、成長して尹重と称し、瑞泉寺殿と号した。浪合で遭難の後三河に入り鳴瀬村(足助)を経て、西三河の吉良の正行寺(木田の正向寺か)に入り、此所に四、五日滞留有ったが吉良、今川の一族が聞きつけ打取り奉るべしと兵を催すよし聞えければ、尾張津島の大橋定省の奴野城に逃れた。
 この王子は作手に隠れた大宝天皇の身代わりの王子で西尾市の久麻久神社に大宝天皇を祭神として祀ることは、これを裏付けるもので、この地方には、義良親王や尹良親王の王子良王の伝説が分布されている。
 (『続南朝正統皇位継承論-尹良親王の伝説』6頁、読点を補った。)

2、浪合村の神風串呂

大宝天皇延命長生を昭示する神風串呂(№183)
大宝」-「天王」-「阿弥陀山」-「表佐竜巻現場」-「河合」-「市原」-「浪合」-「卍身延山久遠寺」-「一宮町(長生郡)

表佐竜巻浪合
三浦芳聖著『神風串呂第十二編』5頁/1961年10月、新住所に改めた

浪合では大宝天皇の身代りがお亡くなりになって、第一皇子・大宝天皇は河合村(切越)へ逃れ、長く久しく延命して長生遊ばされた。88歳で崩御。

*表佐は影武者(身代り)が表面を装って犠牲となり本命を佐(助)けると云う意味です。阿弥陀山は救済・助命を表わす。

身延山久遠寺
卍身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町)

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この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
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神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。


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