三浦芳聖伝 14、日曜院の住職時代(3)
日曜院の住職時代(3)
1、錦旗会に入会
芳聖は、昭和2年(1927)4月、錦旗会に入会した。
錦旗会に入会したお蔭で芳聖は、当時、錦旗会の顧問であった理学博士・宮中顧問官「山口鋭之助」に師事して本津学(もとつがく)を学ぶことが出来るようになった。
芳聖の著書から引用します。
2、中田彌生との縁談
昭和2年(1927)9月、数えで24才の芳聖に、縁談がもちあがった。相手は芳聖が東京の学生時代に家庭教師をしていた女性で、お茶の水女子高等師範学校を昭和2年3月卒業した「中田彌生(明治40年3月生れ)」さん。父親は、東京都練馬区の豊玉刑務所の所長をしていた「中田達治」氏。
芳聖は、大正15年(1926年)12月1日に、恵照山日曜院の住職に就任したが、6月には院代を置いて、月の内半分は遠祖の御陵探し、後の半分は東京都中野区の「新井薬師」に隣接した「高橋」という家の二階を間借りして、東京での修養・研鑽と維新運動に充てていた。
その頃、学生時代に家庭教師をしていたよしみで「中田家」を訪問した所、中田達治氏と漢学で意気投合し、芳聖が月2回ほど中田家を訪問し、中田氏は漢詩を講義し、芳聖は四書五経を講義する内に昵懇の仲となり、中田氏の要望で娘の弥生を嫁に貰ってほしいと言われていた。
この「彌生さん」の姉「文代」さんが、名古屋に嫁いでいたので、芳聖は、家庭教師時代のよしみで、京都へ出る時などに、時々遊びに行っていた。その関係で、見合いの話しが出て、芳聖は「彌生さん」と名古屋でお見合いをした。
その時、一度、日曜院が見たいという事になり、昭和2年(1927年)9月、中田父娘が、愛知県蒲郡市の日曜院へやって来て2泊して帰宅し、昭和2年(1927年)の11月に結婚式をする運びとなった。
お寺の見学から帰った「中田父子」が、芳聖を親族に紹介するため、芳聖に「住職の姿」で中田家に来てくれと連絡してきたので、芳聖は翌10月、それならば本当の坊主の姿を見せてやろうと思い立ち、久しぶりに頭を剃り上げ、墨染めの法衣に手甲をつけ、頭陀袋を提げて鉄鉢を持ち、錫杖をついて、修行僧が托鉢する姿で中田家を訪問し親戚一同の席に出た。
すると、墨染めの衣を着て頭を剃り上げた芳聖の姿を見た親戚一同が、あの乞食坊主の家内にすることは可愛そうだと心配して大反対したので、彌生さんもその気になって、この縁談は破談となった。
芳聖は、単純に「僧侶の本当の姿はこういうものだ!」という事を親戚の方々に見せようとしたのだが、結局、この縁談は、串呂主宰神の計画には無かったので破談になった。串呂主宰神の計画は「串呂の解明」にあった。
3、中西久次郎氏が青木文献を携えて来る
昭和2年(1927)9月、中田父娘が2泊して帰宅した翌日の事である。代々三浦家に仕えていた豊川市御油町欠間の「中西久次郎」氏(明治11年~昭和26年・青木和田尉盛勝の子孫)が、中西家に伝わる室町時代に書かれた古文書「青木文献」を携えて日曜院にやって来て次のように述べた。
芳聖は、中西氏に「私が長慶天皇の皇孫であるかどうかという事は別問題として、千種文献に明瞭に記されている以上は一本木万福寺に納むという位置を探し出して、宮内省に請願して調査して頂くべきだ」(同上著)と申し上げたそうだ。
青木文献(別名千種文献)とは、豊川市御油町欠間の中西家に伝わる、南朝忠臣千種忠顕の子孫「青木平馬」が応永30年(1423)と31年(1424)に書き残した覚え書。
詳細は「松良天皇(正良) (№79)」を参照下さい。
4、綾姫塚(上臈塚)を発見
この時、芳聖が見た青木文献の中に「松良親王の御坊塚」の所在地、「長慶天皇の皇女綾姫」の落ち行き先の地名が書かれてあったのと、「彌生さん」の日曜院訪問などの一連の出来事が、その時不明であった遠祖「松良天皇皇后綾姫」の御陵を探す神風串呂解明上、大変役に立った。
この時、松良天皇の御陵は、6歳の時、父・市次郎と一緒にお参りした「ご先祖の墓」(御坊塚、豊川市御油の松並木附近)であり、その皇后綾姫の落ち行き先は「静岡県磐田郡光明村」である事が判明したのである。
そこで、芳聖は、20萬分の1の地図でその当時住職をしていた「卍恵照山日曜院」と「松良天皇御陵」を結んで西方に延長した所、倉敷市の「弥生町」を串呂し、東方に延長すると「静岡県磐田郡光明村」を串呂していた。
「弥生町」-「湊川神社」-「恵照山日曜院」-「松良天皇御陵」-「静岡県磐田郡光明村」
この串呂は、南朝忠臣大楠公奉斎の「湊川神社」を串呂していたので、芳聖は、楠木正成公のお導きに相違ないと感涙に咽びつつ感謝した!
芳聖が静岡県磐田郡光明村(浜松市天竜区)に調査に出かけたところ、二俣から光明村に入るとすぐ船明と云う集落があり、そこに菊水の紋の付いた五輪の塔のある瓢箪型をした塚を発見した。(浜松市天竜区船明2619番地、秋葉街道=152号線の東側)
芳聖が、その傍らに住んでいる「杉本宇吉」という人に聞いてみるとその塚は、通称「上臈塚」と呼ばれていると言われたので、ここに間違いないと確信し、「阿弥陀経」を一巻読経して、ねんごろに回向した。
因みにこの塚の五輪の塔の菊水の紋は「菊」即ち皇族が、「水」即ち漂流されている、という意味だそうだ。
上臈塚の位置が特定できたので、帰宅後下記の串呂が解明できた。
「彌生」―「湊川神社」―「元町」―「黒田」―「市子」―「卍恵照山日曜院」―「松良天皇御陵」―「西黒田」―「光明村船明」―「黒田」
5、長慶天皇の御陵は嵯峨慶寿院址に決まる
これは後日談ですが、昭和5年(1930)、青木文献に基き、中西久次郎氏が中心となって東三河(豊川市御油一本木)における長慶天皇の御陵の調査を宮内省に依頼したところ、
宮内省は係官の是沢恭三氏を派遣して一週間ほど調査したが、初めから真剣で調査する気などなく、結局、長慶天皇の御陵は、昭和19年(1944年)2月5日、京都の嵯峨慶寿院址の地に決まり、
同年2月23日、宮内省主催の「長慶天皇山陵御治定奉告の儀」が執行され、嵯峨東陵の築造が進められる事になり、9月4日、「修補竣工の儀」が執行された。
しかし、芳聖によると、この決定は日本神界の御神霊がお喜びになられなかった為、昭和19年(1944)12月7日には東南海大地震(マグニチュード8.0、死者1223名、全半壊5400戸)が、昭和20年(1945年)1月13日には三河大地震(マグニチュード7.1、死者2306人、全半壊2万3千8百戸)が起きたのだそうだ。
これらの地震は、戦争中の報道管制によって新聞・ラジオなどの報道があまり詳しくなされなかったので、あまり知られていないが、多くの犠牲者が出た大地震であった(米軍による人工地震説もある)。
全ての地震が神霊界の意思表示であるなどということは常識では納得できないことだが、私は、地震が神霊界の意思表示であると思われる個人的な体験をしたことがあるので、そういう場合もあると思う。
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串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
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