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北陸朝廷の存在を昭示する神風串呂

💟ご挨拶

串呂哲学研究会 鈴木超世志

このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。

ここでは、「北陸朝廷の存在を昭示する神風串呂」をご紹介しています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。



1、忠烈無比の官軍将兵を称える天王山忠魂碑


三重県鈴鹿市国府町のほぼ中央部に、天王山という63mの小山があります。その山頂に、大正10年(1921年)3月、国府町在郷軍人会が建てた「天王山忠魂碑」があります。

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三重県鈴鹿市国府町天王山(地図マピオン)

ネット検索を駆使して、「北陸朝廷の存在を昭示する神風串呂」を研究中、「天王山忠魂碑」が、串呂哲学上の重要な地文である事が解明され、私は、神秘的な神風串呂の威力に圧倒されると同時に、天佑神助のお導きに心から感謝いたしました。

天王山忠魂碑(JM3AVI 山と無線大好き)

「天王山忠魂碑」は、北陸朝廷のあった金ケ崎城で尊良上皇に殉死した官軍将兵の忠烈無比なる日本魂を称えるために建てられた記念碑なのです。

この解釈が正しいかどうか、最後までお読み頂き、ご感想などお寄せ下されば幸いです!

「串呂哲学研究ノート№19」北陸朝廷で、後醍醐天皇から皇位を継承した新天皇が天下に号令を掛けていたことを証明する古文書を紹介しましたが、今回はその「北陸朝廷」が存在した事を昭示する、的確で神秘的な神風串呂をご紹介します。

我が国二所の宗廟の一つで神風串呂の主宰神である天照大御神を祭神とする皇大神宮内宮から、この金ケ崎城で壮烈無比のご最期を遂げた尊良天皇を祭神としてお祭りしている金崎宮(以下、金崎神宮と尊称します)を鑑定して頂く串呂です。

忠烈無比の官軍将兵は、金崎神宮の境内にある、摂社「絹掛け神社」にお祭りされています。

2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。

3、尊良上皇以下、官軍将兵の壮烈なる最期

尊良上皇以下、官軍将兵の壮烈なる最期の有様を述べた『太平記』巻18の6の一節は、是非とも目を通して頂きたいと思います。これは「太平記」の中の白眉の一節で、中世戦記文学の珠玉の結晶、日本民族の宝です!

読みやすい口語書き下し文にしました。声を出して朗読して見て下さい。緊迫した城中の空気が伝わって来るようです!

尊良天皇の第二皇子「基良親王」の嫡孫家である岡崎市明見町の河合家では宮様でありながら壮烈無比の最期を遂げられた日本魂を「尊良精神」と呼んで尊称し伝承してきました。享年34(満33歳)。

新田越後守義顕にったえちごのかみよしあきは、一宮いちのみや御前おんまえに参りて、「合戦かっせんよう今はれまでとおぼそうろう。我等、力無ちからなく、弓箭きゅうせんの名を惜しむ家にてそうろあいだ自害じがいつかまつらんずるにてそうろう。上様うえさま御事おんことは、たとえ敵の中へ御出おんいでそうらども、失いまいらするまでの事はよもそうらわじ。只加様ただかようにて御座ござ有るべしとこそぞんそうらえ。」と申されければ、

一宮いちのみやいつよりも御快気おんこころよげに打ちませ給いて、「主上しゅじょう帝都ていと還幸かんこう成りし時、我を以て元首がんしゅの将とし、汝を以て股肱ここうの臣らしむ。股肱ここう無くして元首がんしゅたもつ事を得んや。されば吾れめい白刃はくじんの上に縮めて、あた黄泉こうせんもとむくわんと思うなりそもそも自害をば如何様いかようにしたるがよき物ぞ。」とおおせられければ、

義顕よしあき感涙かんるいを押さえて、「加様かようつかまつる者にてそうろう。」と申しもはてず、刀を抜いて逆手さかてに取り直し、左の脇に突き立て、右の小脇こわきのあばら骨二三枚かけき破り、其の刀を抜いて宮の御前に差し置きて、うつぶしに成りてぞししにける。

一宮、やがて其の刀を召され御覧ごらんずるに、柄口つかぐちに血あまりすべりければ、御衣ぎょいの袖にて刀のつかをきりきりと押し巻かせ給いて、雪の如くなる御膚おんはだえを顕わし、御心おんむねの辺りに突き立て、義顕がまくらの上に伏させ給う。

頭大夫とうのだいぶ行房ゆきふさ里見さとみ大炊助おおいのすけ義氏よしうじ・武田の与一よいち気比けひの弥三郎やさぶろう大夫たゆう氏治うじはる大田帥おおたそつの法眼ほうげん以下いげ御前おんまえそうらいけるが、いざさらば宮の御供おんともつかまつらんとて、同音どうおんに念仏唱えて一度に皆腹を切る。

れを見て庭上ていじょうみ居たるつわもの三百余人、互に差違さしちがえ々々さしちがえいやが上に重伏かさなりふす

(原文の里見大炊助時義は義氏の誤りのようです。訂正しました。)

4、皇大神宮内宮と金崎神宮の神風串呂

三浦芳聖は、8大串呂起点であり、我が国二所の宗廟の一つで、串呂の主宰神である皇大神宮内宮から尊良天皇を祭神とする金崎神宮(かねがさきじんぐう)に串呂すると次のようになると述べています。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第一章18頁

金崎神宮(敦賀市)-政所町(東近江市)-御在所山(菰野町)-国府町(鈴鹿市)-御薗町(鈴鹿市)-上野(河芸町)-一色(津市)-皇大神宮内宮(伊勢市)       

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第一章18頁、現住所に改めた

【地文のみ掲載】
⛩金崎神宮-政所町-〽御在所山-国府町-御薗町-上野-一色-⛩皇大神宮内宮

【地文の解釈】(地名に地図がリンクしています。)
(1)⛩金崎神宮(かねがさきじんぐう、福井県敦賀市金ヶ崎町)
尊良天皇と恒良親王を祭神とする神社。天皇を祭神とする神社ですので、串呂哲学では「金崎神宮」と尊称しています。

金埼神宮 (2)
金崎神宮(福井県敦賀市金ヶ崎町)

🟢⛩金崎神宮は、明治23年(1890年)9月、金ヶ崎城址に尊良天皇を御祭神として建立され、官幣中社に加列。明治25年11月、恒良親王が合祀され、明治26年(1893年)現在地に社殿が竣工して遷座しました。

いわゆる建武中興十五社(建武中興に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社)のひとつであります。   

金ヶ崎城跡は、尊良天皇終焉の地(ご胴体埋葬)の地であります。 

金崎宮(かねがさきぐう)は、福井県敦賀市にある神社である。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社である。
恒良親王と尊良親王は、足利尊氏の入京により北陸落ちした新田義貞、および氣比神宮の大宮司に奉じられて金ヶ崎城に入ったが、足利勢との戦いにより敗死した。
明治23年(1890年)、尊良親王を祀る官幣中社金崎宮が金ヶ崎城址に創立された。明治25年(1892年)には恒良親王が合祀され、明治26年(1893年)、現在地に社殿が竣工して遷座した。              『ウィキペディア(Wikipedia)』金崎宮

🟢絹掛神社(摂社)(金崎神宮の境内にあります。)

絹掛け神社 (2)
絹掛神社(摂社)

明治30年(1897年)10月19日、社号を金崎宮摂社絹掛神社として御鎮座祭が執り行われ、藤原行房ふじわらゆきふさ新田義顕にったよしあき気比氏治けひうじはる気比斎晴けひなりはる瓜生保うりゅうたもつ瓜生義鑑うりゅうぎかん里見時成さとみときなり里見義氏さとみよしうじ由良具滋ゆらともしげ長浜顕寛ながはまあきひろ武田與一たけだよいちなどの将士が祀られています。  

*新田義顕 享年18 (満17歳)、一説に享年20。尊良天皇の女婿。

(2)政所町(まんどころちょう、滋賀県東近江市)
⛩金崎神宮(金ケ崎城)に、かつて天下に号令を掛けた朝廷が存在したことを表わす地文です。(4)の国府と同じです。

  政所=国府=朝廷

滋賀県東近江市政所町(地図マピオン)

(3)御在所山(ございしょやま、三重県三重郡菰野町)
御在所山は、別名御在所岳。標高1212m。何がおわしますか?(何がございますか?どなた様のどのような行在所ですか?)を鑑定する八大串呂起点のひとつです。(この串呂では山頂からやや北方を串呂しています。)

ここでは、「金崎神宮は天皇のお宮(御座所)であること」を表わす。

全国各所にある御在所山の中で、鈴鹿山脈にあるこの三重県三重郡と滋賀県東近江市に跨る御在所山が、歴史(地誌・地歴)的にも霊的にも地文(三重県三重郡)の上からも、名実ともに日本最高の御在所山です。

【参照】御在所山についての詳細はこちらをご覧ください。

(4)国府町(こう町、三・鈴鹿市)
この串呂では、⛩金崎神宮(金ケ崎城)に、かつて天下に号令を掛けた朝廷が存在したことを表わす地文です。国府=朝廷。

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三重県鈴鹿市国府町天王山

この国府町の中央部に天王山という63mの小山があり、その山頂に、大正10年(1921年)3月、国府町在郷軍人会が建てた「天王山忠魂碑」があります。(インターネットのお蔭で発見することが出来ました。)

天王山忠魂碑(JM3AVI 山と無線大好き)
天王山忠魂碑
三重県鈴鹿市国府町天王山(地図マピオン)

この天王山忠魂碑は、尊良上皇に殉死した忠烈無比の官軍将兵を称える記念碑と解釈いたします。天王山が小山であるのは、尊良天皇の在位期間がおよそ5ヶ月と短期間であったからだと推察しています。

国府(こう、こくふ)は、日本の奈良時代から平安時代に、国司が政務を執る施設が置かれた場所や都市があった所です。串呂では「国家の政務を執る所=朝廷」と解釈します。

北陸に朝廷があったことを証明する古文書のひとつに「白河文書」(結城文書ともいう)があります。鈴鹿市の国府は、「白河文書」にあるように、鶴賀津(金ヶ崎城)から天下に号令をかけた北陸朝廷の存在を立証する地文です。

北陸朝廷(串呂哲学研究ノート№19)で詳述しましたので、興味のある方は参照して下さい。下記は金ケ崎城(鶴賀津)から発せられた白河文書です。

森茂暁「太平記の群像」207頁/角川ソフィア文庫

 尊氏直義以下逆徒追討の事
先度被下綸旨了去月十日所有臨幸越前国鶴賀津也
相催一族不廻時刻馳参可令誅伐彼輩於恩賞者可依請者
天気如此悉之以状
 延元々年十一月十二日     
              左中将在判
 結城上野入道館

高氏・直義ただよし以下逆徒追討の事
先度綸旨りんじを下されおわんぬ。去月十日越前国つる賀津がつに臨幸あるところなり。一族を相催し、時刻をめぐらさず馳参し、かのともがらを誅伐せしむべし。恩賞においては、請いによるべし、てへれば、天気かくのごとし。これをつくせ、もつて状す。 
延元々年十一月十二日      左中将在判  
結城ゆうき上野こうずけ入道館

森茂暁「太平記の群像」207頁/角川ソフィア文庫

(5)御薗町(みその町、三重県鈴鹿市)

御園は皇室を表す雅語で、御薗は御園に比べ草冠があるので格が上位で天皇・皇后を昭示する地文と云われています。

ここでは尊良天皇が後醍醐天皇の皇位を継承された天皇であることを表わす地文です。 

(6)上野(うえの、三・津市河芸町)

上野は金崎城に於て、守永親王(上野太守こうずけのたいしゅ)が、父・尊良天皇から皇位を継承したことを昭示しています。

尊良天皇と守永親王(符号=上野)は、串呂にセットで出て参ります。その理由は、後醍醐天皇が尊良天皇に譲位するに当って、「将来必ず守永親王に皇位を継承させること」という条件が付けられていたからです。

詳細は下記をご覧ください。

【参照】三浦芳聖伝 48、豊川市へ転居3、後醍醐天皇の御神示

(7)一色(いっしき、三重県津市河芸かわげ町)

「一色」は、串呂哲学では「彼と之とは同じ」の意味で、リンクする串呂で代名詞の役割をする地文です。

この串呂では、「⛩皇大神宮内宮」と「⛩金崎宮」は同じである。すなわち、東山天皇(尊良)は天照大御神と霊的に一体の「スメラミコト」(天津日嗣の天皇)であると解釈いたします。串呂では「⛩金崎神宮」と尊称申し上げる所以であります。

「牧平大門」と「三浦名」との神風串呂 (№7)
宗心-一色(三・津市河芸町)-大宝天皇蒙塵の地・牧平大門-天神谷-大久保-加茂-三浦名

上記串呂の「一色」と同じです。リンクしています。

 (8)⛩皇大神宮内宮(こうたいじんぐうないくう、伊勢市宇治館町)

皇祖天照大御神をお祭りするわが国二所の宗廟の一つで八大串呂起点のひとつ。天照大御神は、串呂哲学・神風串呂の主宰神。

串呂起点としての鑑定の結果は下記になります。
ア、金崎神宮が天皇のお宮である事を表わす。(御薗、天王山、御在所山)
イ、金ケ崎城に北陸朝廷が存在した事を表わします。(国府・政所)
ウ、金崎神宮・摂社絹掛け神社に祭られている官軍の将兵が忠烈無比の最期を遂げたことを表わします。(天王山忠魂碑)

【参照】皇大神宮内宮の詳細はこちらをご覧ください。



5、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

⛩金崎神宮-政所町-〽御在所山-国府町-御薗町-上野-一色-⛩皇大神宮内宮

三浦芳聖は次のように述べています。この神風串呂は(尊良天皇が)正に「天照大御神」の「天津日嗣の御子」を顕わす神風串呂であります。
(『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』本文18頁)

⛩皇大神宮内宮の大御神が、尊良天皇を祭神とする 金崎神宮は天皇(御薗・天王山)の御座所(御在所山)であり、かつての朝廷(国府・政所)であると鑑定された実に的確なる神風串呂です。

🟢北陸朝廷が存在した事を表わします。
🟢さらに、⛩金崎神宮で、守永親王(上野太守こうずけのたいしゅ)が、父・尊良天皇から皇位を継承したことを昭示しています。

🟠天王山忠魂碑は、尊良上皇に殉死した官軍将兵を称える記念碑であります。

🟢金ケ崎城が天下に号令を掛けた北陸朝廷であった事を昭示する正に神風串呂です。驚異的、神秘的な事に、「御在所山」「皇大神宮内宮」と八大串呂起点がふたつも串呂しています。

また、インターネットの発達により地図検索で細部が分かるようになり丁寧に調べた所、この串呂線上に、政所町」(滋賀県東近江市)、「天王山忠魂碑」(鈴鹿市国府町)、上野」(津市河芸町)が、串呂していました。

東近江市政所町
滋賀県東近江市(地図マピオン)

政所町は国府と同様、金崎城に北陸朝廷が存在した事を昭示し、上野は金崎城に於て、守永親王(上野太守)が、父・尊良天皇から皇位を継承したことを昭示しています。

鈴鹿市上野
三重県津市河芸町上野(地図マピオン)

金ヶ崎神宮-政所町-御在所山-国府町・天王山忠魂碑-御薗町-上野-一色-⛩皇大神宮内宮

政所=国府
天王山=御薗
上野=上野太守・守永親王(興国天皇)

ネット検索を駆使して、「北陸朝廷の存在を昭示する神風串呂」を研究中、天王山忠魂碑を発見したとき、私は神風串呂の威力に圧倒されると同時に、天佑神助のお導きに心から感謝いたしました。

「天王山忠魂碑」は、金ケ崎城で忠烈無比の最期を遂げた官軍将兵の大和魂を顕彰する為に串呂の主宰神が用意された地文であると直感したからです!

尊良親王が皇位継承者である事を昭示する神風串呂(№18)で、ご紹介しました下記の串呂地文と併せて考察しますと、神々が、金ケ崎城で壮烈無比のご最期を遂げられた尊良天皇によせられる思いが如何なるものかが伺われます。

竹生-上野-与位-高長高御位山-高甲良山-八尺鏡野

上野は、尊良天皇の皇位を継承された上野太守・守永親王(興国天皇)を表わす地文です。


🟠明治天皇の神風串呂


💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)
🟡串呂文庫 コピーサービスのお知らせ 串呂哲学研究会


🟣串呂哲学研究ノートバックナンバー

🔴情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。


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