💟第24話 頭山満翁遺訓-一心が天に通ずる聖人に
🟡芳聖の懊悩は雲散霧消した
昭和4年(1929年)2月、三浦芳聖は、田中光顕伯爵(当時数えの85歳)から明治維新は南朝革命であったという告白証言を聞き、それまでの懊悩はすっかり晴れ、田中伯爵の要望で、「三浦家系譜を秘蔵して一生何人にも語らぬ事」を誓約したのみならず誓書まで提出しました。
すると、喜んだ田中伯爵は「ご貴殿のご将来の為に私の無二の親友、頭山満翁を紹介するから。」と言って、自ら電話を掛けて連絡を取り、芳聖を国家主義者の大物である玄洋社の頭山満翁のお屋敷(東京都渋谷区常盤松町の頭山邸)に連れて行ったのです。
💫恐らく田中伯爵は、この重大事件の処理について、高齢の自分一人では自信が持てなかったので、国家主義者の大物「頭山満翁」に相談し、また後々問題が起きないよう睨みを利かす重石になって欲しかったのだろうと思います。危機管理の為の保険ですね!
🟡頭山満翁遺訓
頭山 満(とうやま みつる、1855年5月27日- 1944年10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥でもある。号は立雲。昭和4年(1929年)当時、数えの73歳。
以下は、芳聖の著書からの引用です。(西暦を補った)
萬國を併せて王たるも、菰をかむりて一椀の主たるも、形の上の事なら蟻の塔の大小も同じで、畢竟児戯にすぎず。彼を栄とし、之を辱とし、或は喜び、或は悲しむは吝な話、たゞ一心の天に通ずるあらば、布衣と雖も決して王者に劣るものではない。
🟡両巨頭の失策で天佑神助を失った日本国
昭和4年(1929年)当時、数えの26歳の青年だった芳聖は、田中光顕伯爵(当時数えの85歳)の告白証言と頭山満(当時数えの73歳)の教訓で、血統上の悩みは全て晴れたのですが、神々は、この両巨頭の措置に非常にご不満であったと聞いております。
その理由は、両巨頭のこの時の判断の結果、神々は、神皇正統家を世に出す好機を逸し大変失望され、困惑されたのです。
これは私の考えですが、そのため大御神の御子派遣計画は、この時、大幅な変更を余儀なくされ、このとき我が日本国は、天佑神助を失ったのです。今もなお失ったままです。
田中光顕と頭山満の両者の措置は、本末転倒の措置であり、その結果、神々の失望と怒りを買って天佑神助を失い、我が国が世界の盟主となる好機を逸した大失策だったのです!
🟡過ちては改むるに憚ること勿れ
これまで、我が日本国は、元寇の神風台風を例に出すまでもなく、太古以来、天佑神助によって守られてきたのです。我が国は神々の照覧し給う神国なのです。その神々の天佑神助を失ったということは、国家と国民を危機に陥れたも同然なのです。
実際、日本の運命は、この時の両巨頭の誤った判断で決まったのです。
その結果、「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス」で始まる開戦の詔勅によって開始された大東亜戦争で敗北し、
明治維新以来、国民に多大な犠牲を強いて築いた業績は、昭和20年(1945年)8月、明治大帝の崩御後たったの35年で、この昭和4年(1929年)からなら、わずか16年で崩壊してしまいました。
幕末以降、多くの若者が尊い命を捧げて築いた日本帝国は、拡張した新領土を失ったばかりか、千古不磨といわれた欽定憲法も、世界に誇る軍人勅諭も、国民道徳の基本と教育の根本理念を明示するために発布された教育勅語までも否定されてしまいました。神々に否定されたのです!
大東亜戦争では、多くの国民が死傷して犠牲となり、広(裕)島と長(良)崎に原爆を落とされ、異民族により占領されて国家主権を失い、占領時のみならず、今も尚、完璧な主権国家とは言えない異民族に隷属する属国状態になっています。
あの時、三浦家に、しかるべき処遇がなされていたら、日本は先の戦争で敗れることも、外国軍に占領されることもなかったのです!
為政者は、この両巨頭の大失策の結果甘受しなければならなかった苦い経験に、しっかり学んで頂きたいと思います。過ちては改むるに憚ること勿れです!今からでも遅くはないのです!
🎀一心が天に通ずる聖人にならねばならぬ御子ありがたし(超世志)