大宝天皇御座所跡・切越町と御在所山の神風串呂(串呂哲学研究ノート№9)
この記事は、神皇正統家極秘伝神風串呂(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。
串呂(クシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した元伊勢クシロの事です。
元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。
地名(地文)に秘められた天地神明の啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。
ここでは、「神皇正統第百代 大宝天皇の御座所跡・愛知県岡崎市切越町と何様がおわしますか?を鑑定する串呂起点、御在所山(三重県三重郡)とを結んだ神風串呂」をご紹介し、詳しい解説をしています。
神風串呂(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!
1、日本一最高の三重県三重郡の「御在所山」
御在所山(ございしょやま)は、ウィキペディアには日本全国に6ヶ所存在すると出ています。この御在所山は、何様がおわしますか?(何様がいらっしゃいますか?、どなた様のどんな行在所ですか?)を鑑定する重要串呂起点です。御が付いている地名は、皇族または高貴な方対象の串呂地文です。
その御在所山の中で三重県三重郡の「御在所山」は、標高1212mあり、詳細は【地文の解釈】で述べますが、歴史(地誌・地歴)的にも霊的にも地文の上からも、名実ともに最高の御在所山であります。
今回は、この三重県三重郡の日本一の御在所山から神皇正統第百代大宝天皇16年間の行在所「愛知県岡崎市切越町」とを結ぶ串呂のご紹介です。なお重要串呂起点についての詳細は、「串呂哲学とは(2) №2」の 「2、串呂起点」を参照下さい。
2、串呂哲学の理解を助ける予備知識
始めての方は、下記の記事を参照してください。
3、大宝天皇御座所跡・切越町と御在所山の串呂
三浦芳聖は、『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(286~7頁)で、大宝天皇御座所跡(切越町)と御在所山とを結ぶ下記の串呂を解明しています。
大宝(雲南市)-百々(津山市)-西山(宍粟市)-岩座神(多可町)-今宿(守山市)-御上神社(野洲市)-御在所山(菰野町)-吉澤(菰野町)-大宝天皇御座所跡(岡崎市)-焼津神社(焼津市)-行者窟(大島町)
(同上著 第七章286~7頁、現住所に改めた。)
【地文のみ掲載】
大宝-百々-西山-岩座神-今宿-⛩御上神社-御在所山-吉澤-大宝天皇御座所跡・切越町-⛩焼津神社-行者窟
【串呂の解釈】
神皇正統第百代大宝天皇が、愛知県岡崎市切越町に隠棲し、満16年間、後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良五皇一体の八幡大明神降誕して必ず天下を平定せんことを祈念して、 大般若六百巻を念書して皇威の回復を熱祷祈願され(長期間修行され)たことを昭示する神風串呂です。
この神風串呂の大要は「大宝-御在所山-大宝天皇御座所跡-行者窟」で、岡崎市切越町の大宝天皇御座所跡は、大宝天皇が大般若六百巻を念書するという長期間の修行に邁進された行在所であったことを昭示する神風串呂です。
【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)大宝(おおだから、島・雲南市吉田町川手) 地図(NAVITIME)
神皇正統第百代、大宝天皇(美良)をあらわす地文。
大宝天皇は、応永17年(1410)、愛知県豊川市萩町に於て御父松良天皇より譲りを受けて践祚。その後、宮路山(豊川市)、三州作手(新城市)、桜井寺(岡崎市)、寺野(岡崎市夏山町)などに潜行。
永享10年(1438)岡崎市切越町に隠棲され、満16年間大般若6百巻を念書、至誠通神、ご神諭のまにまに、享徳3年(1454)牧平大門に移住され、皇后佐久姫の姓を名乗って三浦藤太夫と称し、純然たる百姓になられました。
大宝天皇に関する詳細な記事は、二所の宗廟から牧平大門を鑑る!「藤太夫島」 と「佐久島」(№4)2、三浦家の古記録から(予備知識)を参照ください。
(2)百々(どうどう、岡・津山市加茂町)
三浦芳聖は「百々は皇室に通じていることをあらわす」と述べています(同上著286頁)。大宝天皇が神皇正統「第百代」であることをあらわす地文とも解釈できます。
山口保吉著『芳花鶴水園の聖地』84頁に「百百とは、王の義より出づ。牡丹は百花の王、獅子は百獣の王、橘は百果の王等より出で。皇室の御霊地と御聖地と重なる地点を百百と称し。御霊蹟地を顕はし奉る貴き名称である。」と説明されている。(編集者注、旧漢字は当用漢字に変換した。)
「三河国中 大宝天皇を祀る神社の傍には百百の地名あり、考証の要あり。」(山口保吉『三河吉野朝の研究』115頁/山口究宗堂/1940年、編集者注、旧漢字は当用漢字に変換した。)
(3)西山(にしやま、兵・宍粟市千種町)
「日は西山に没す」という文句のように、神風串呂では「西山」は神皇正統の天皇が天之岩戸篭りをしたことをあらわす。大宝天皇御座所跡(切越町)に於て、天照大御神から三種の神器を埋蔵して天之岩戸篭りをするよう御神諭があったことをあらわす。
(4)岩座神(いさりがみ、兵・多可郡多可町加美区)
「岩に座す神」すなわち「行者窟」と同様、大宝天皇が一心不乱に修行した事(満16年間、後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良五皇一体の八幡大明神降誕して必ず天下を平定せんことを祈念して、大般若六百巻を念書して皇威の回復を熱祷祈願した事)をあらわす地文。
この岩座神は、三浦芳聖が日月の滝(千ヶ峰の中腹にある唐滝)で禊ぎの水行を敢行した時に滞在した宿泊地のあった村である。
【参照】岩座神の七不思議
(4)今宿町(いまじゅく、滋・守山市)
宿は御座所をあらわす。西北に隣接して「大門町」がある。
(5)御上神社(みかみじんじゃ、滋・野洲市三上)
御祭神は天之御影神。この神風串呂を守護している神社であるとともに、「御上=おかみ=天皇」をあらわす地文。
御上神社HP 御上神社(ウィキペディア)
(6)御在所山(ございしょやま、三・三重郡菰野町)
何がおわしますかを鑑定する重要串呂起点。別名御在所岳。標高1212m 何がおわしますか?(何がございますか?、どなた様のどのような行在所ですか?)を鑑定する串呂起点です。
全国各所にある御在所山の中で、鈴鹿山脈にあるこの三重県三重郡と滋賀県東近江市に跨る御在所山が、歴史(地誌・地歴)的にも霊的にも地文(三重県三重郡)の上からも、名実ともに日本最高の御在所山であります。8大串呂起点のひとつ。
この日本最高の「御在所山」が三重県三重郡という日本のほぼ中央部に存在することも大いなる神図り、神経綸と拝察いたします。
御在所山(ウィキペディア)で、日本全国に6ヶ所存在すると出ています。
【参照】
インターネットの「御在所山HP」(広報こもの、平成18年6月号 No.550)を拝見しますと、下記のように出ています。
上記の伝承からは、神風串呂の経綸のために皇祖「天照大御神」御自ら、このような早い時代から、いろいろとご苦心されたことが拝察されます。
(7)吉沢(よしざわ、三・三重郡菰野町)
大宝天皇(美良・よしなが)の御座所をあらわす。吉(よし)は「美良・よしなが」、沢は、場所(御座所)をあらわす。
(8)大宝天皇御座所跡(大宝天皇ござしょあと、岡崎市切越町)
愛知県岡崎市切越町は、永享10年(1438)より16年間の大宝天皇の隠棲地。切越町中ノ坪地内山中にある御座所跡に遺跡(8基の石製の多層塔)があり、ここで大宝天皇の神霊写真の撮影が行われた。
また、その麓には昭和27年(1952)当時、大宝天皇に扈従していた家来の子孫と思われる「兵頭、青山、本間」を名乗る10戸余の人々が住んでいた。
(藤原石山著『南朝正統皇位継承論』1988年版所収「三河南朝遺臣潜居史考」88頁「大宝天皇隠棲の地と伝える切越の多層塔」)
(9)焼津神社(やいづじんじゃ、静・焼津市焼津) 焼津神社HP
祭神は、日本武尊、吉備武彦命、大伴武日連命、七束脛命。この串呂を守護している神社。境内に日本武尊の銅像がある。
【参照】静岡県焼津市焼津、JR焼津駅の南西約1kmにある神社。式内社で、旧社格は県社。戦後、神社本庁別表神社に加えられた。旧称入江大明神(いりえだいみょうじん)。(ウィキペディア・焼津神社より引用)
(10)行者窟(ぎょうじゃくつ、東・大島町泉津福重)
伊豆大島の泉津地区にある間口16m奥行き24m ほどの海蝕洞窟。文武天皇の3年(699)役行者(役小角)が流罪となった時に修業した洞窟と言われている。
この行者窟は、大宝天皇が大宝天皇御座所跡(切越町)で、長期間一心不乱に修行された事(満16年間、後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良五皇一体の八幡大明神降誕して必ず天下を平定せんことを祈念して、大般若六百巻を念書して皇威の回復を熱祷祈願した事)をあらわす地文。
【参照】役小角
4、この神風串呂の哲学的考察
この串呂は、天地神明が神皇正統の天皇が切越町の隠棲地で満16年間という長期間、大般若600巻を念書する修行に明け暮れた事を証しするもので、誠に神秘的かつ驚異的というほかありません。
この串呂は、大宝天皇の御座所跡(切越町)を通りますので「実証の串呂」といいます。
日本には神社がたくさんありますので、同一方角線上に神社が2社串呂していても不思議はありませんが、その地文(御上神社、焼津神社)が普通ではありません。
大宝天皇の御製を昭示する神風串呂 (№8)でご紹介した
「大日山-九重-切越町-寺野薬師堂-御正体山-新井薬師」
の神風串呂の御正体山にしても、今回の御在所山にしても、「御」という文字が付いていることから、この二つの地名は、皇族に関する地文であると言えます。
むしろ神風串呂は神皇正統家の存在を顕彰し擁護するためのものであると言えます。
三重県三重郡の御在所山の山名が御在所山と名付けられたのは、(6)御在所山の【参照】で述べましたように倭姫命(第11代垂仁天皇)の時代でありますから、3世紀後半から4世紀前半ごろのことであります。
ということは、もうこの時代から、神々による神風串呂の構築が始まっていたということになります。
これを私は神風串呂史観と呼んでいますが、まず神風串呂の世界という青写真が存在していて、その青写真に従って歴史が展開してきたのではないかという歴史観です。
3次元の世界に住んでいる人間には高次元の世界の仕組み、特に時間の観念が分からないのですが、神皇正統家の蒙塵を予知された日本の神々は、そうなったときのために神風串呂をご用意されたという考え方です。
🔴バックナンバー(総合)
🟡情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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