発掘手記 vol.2
2020.05.08
「私たち今している生活をこれから自分たちでしていくためには、、」
あれは押し付け以外のなんでもなかったな。
今日はGINZAの家入レオさんによるコラム、「言葉は目に見えないファッション」vol.2を読んでMacBookのメモを開いた。
もちろん私が言ったことは正論だ。だから彼は何も言えなかったんだと思う。し、例え相手が彼じゃなくても何も言えないと思う。その通りだって、思うはずだ。
でも、「その通りだよ。」で終わる場合と、「その通り、うん、そんなんだけどさ…」と認めた上で肯定できない感情を孕んでいる場合がある。
私は今でも、「私が今している生活、したい生活を自分でしていくためにはお金が必要だ。だから稼がなくちゃならない。」という思いを軸にして将来のことを考えている。
この時私は、女性にしか相談しなかった記憶がある。それは決して意図したものではなく、その時丁度男友達と会っていなかっただけだ。
彼女らは私を全肯定。「〜くん、それは子供だね。ガキだね。」と口を揃えて言った。でももし男の人にも話していたら、少しはその時の彼のきもちが当時の私にも少しは分かったのではないかと。その言葉は正しいけど、まだ学生でしかない二人なのにそんなド正論をぶつけるのは生産的ではないのではないか、と。私の中だけならともかく、他人に求めるのはいささか傲慢なのではないか、と。
息苦しさを感じるのは当然であり、それが悪いと言うわけではない。ただ、その感情を当時の私は幼稚だと思い情けないと感じた。その時は、暖かいお湯に冷たい氷を一つ落としたような感覚で、少し暖かさは覚めてしまったけど、ふつうに毎日を過ごしていれば見えなくなるものだと思った。
でも本当はそうではなくて、お湯ではなくて、塩水だった。小学生の時に200mlの水にどれだけの塩が溶けるのかを学んだアレである。少しづつ溶けていっても、その塩の大きさ故に最後には溶けずに残ってしまう。飽和状態。もう溶け切ることはない。
その後楽しい日々を過ごし、塩が溶けていくのを感じたが、いずれはまた気付いてしまう。
そして当時の私に水を増やすことはできなかった。
いや、できなくて全然よかった。よかったんだ。ひたすら食塩水を作り続ける女にならずに済んだ。(昔なら永遠水を継ぎ足していた)
あれは押し付けだったかもしれないが、間違ってはいない。正しいことを言ったから行動として間違っていないのではなく、自分の信じる主張をしたと言う行動が間違っていないのだ。
文章を書こうと思った時は、傲慢で反省すべき点だと思っていいたけど、書きながら、あの時の私はあれでよかったんだと思えた。何も間違ってない、私が一番なりたくない関係にならずに済んだのだ。あっぱれであろう。そう、思う。
050820
正論は正しいが、生産性に欠けることが頻繁にある。