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正義の鉄拳とは

ロシアの存亡がかかっているからウクライナを攻めたし国内の親ロシア派を救いたいから攻撃しただけで、正義は私たちにある。

信教上の絶対的存在をからかうことは許されないし、ましてや風刺画などで嘲笑の対象にしたりするなどは許されないからそういう奴は殺されても仕方ない。正義は私たちにある。

電車でタバコを吸ってたからと言ってかなりしつこく文句を言ってきたし、私の体に触れたのでああこれは正当防衛が成立すると思って行動した。正義は私にある。

これらに共通するのは、「悪いのはそもそもの原因を作った側である」という思いと、「だから殴られたり蹴られたり、なんなら殺されても文句は言えない」という結論である。一体、何を書いているのかというと、例のアカデミー賞の受賞式でのトラブルの件である。いろんなSNSを見ているが、本国ではどちらかというと「理由はともあれ暴力をふるってはいけない」と責める意見が多かった気がする。多分レーティングに厳しい国だから、子供たちが見ている生中継の番組で公然と暴力が振るわれたことに対しての憤りなのだろう。日本では「言葉の暴力も酷いからそれを罰せよ」とか「妻が侮辱されて怒らない方がおかしい」とか「フックではなくただのビンタ。そこまで目くじら立てることではない」とか、どちらかというと肯定的というか擁護している意見も少なくなかったように思う。そこで冒頭で引用した実際の事件例である。皆さん、正義であると思っている(はずだ)

正義とは主観的な部分も多く、加害者にとっての正義が社会的な正義とは相容れない場合もあるけど、いったんその人の正義を認めたとしよう。あとはその正義を何で表現するか、だけを論点にしたい。それが「自分にとって正義であれば殴っても蹴ってもいいのだ」を是とするかどうか。僕も今回のアカデミー賞でのクリス・ロックのジョークは品性に劣るしそもそも容姿をからかったり、しかも病気による脱毛という本人に何の落ち度もないものをあげつらうのはエンターテインメントの風上にも置けないと思う。彼は元々そういう芸風で、以前も人種差別的なギャグをやって顰蹙を買ったわけで、ある意味「どれだけ非難されようが覚悟を決めて嫌われ者をやり通す」筋金入りの芸人なわけで、そんな人を世界が注目する賞の生中継に起用する方もどうかしてると思う。前田日明を生放送に出して差別発言されたからと謝罪するテレビ局と同じで頭が悪いとしか思えない。それらをふまえてももう二度とTVメディアに出るべきではないタレントで、どこかの劇場でずっと放送禁止ネタを言い続けて面白がってればいいのにとは思うが、ではその「言葉の暴力」に対して「肉体の暴力」で対抗することが本当にそれしかない選択肢だったのかは疑問だ。

もし「いや、あれをビンタしたのは正しい。だからウィル・スミスは何も悪くないのだから謝罪するべきではなかった。謝るべきなのはクリス・ロックの方なのだから」と思うのであれば、その人は(極論かもしれないが)正義だと思えば暴力を使うのもやむなしと思う人だということだ。いや、映画賞での一幕と戦争や暴力事件を一緒にするなと言われるかもしれないけど程度の差こそあれ構造は同じなのだ。

お前はどうすれば良かったと思うのかと聞かれたら、アカデミー賞をとるほどの名優ウィル・スミスであれば皮肉たっぷりにスピーチで返すこともできたろうし、例えあの場で同じように詰め寄ったとしても冷静に謝罪と訂正を要求することはできたと思う。それでも「なんで謝るのよ」と言われたら仕方ない。その時は一発お見舞いするしかないか。というのは冗談だが、やはり「暴力には暴力を」を正解にしてほしくないとは思う。綺麗事かもしれないけど。

ちなみに僕自身も高3の時、クラスの垢抜けないタイプのメガネの学級委員の優等生の女子と付き合ったときに散々冷やかされた。趣味が悪いだのなんだの影で言われてたけど我慢してた。あるとき、二人で下校する時、仲のいい友達がとても侮蔑的な言葉で彼女のことを茶化すのが聞こえた。その時は、自分ではなく彼女のことが可哀想で腹が立って(後にも先にもそんなことはないことなんだけど)もうあいつを殴ろうと思って踵を返した。彼女のためだというのと、彼女の前でこれで怒らなければ男じゃないと思ったからだ。でも。殴らなかった。僕がケンカ慣れしてないからビビったとかもあるとは思うけど実はそれだけではない。僕の腕をものすごく強い力で引っ張る人がいたからだ。それが彼女だった。振り向くと泣きそうな顔して首を振っていた。力が抜けた。ここで揉めても彼女が幸せになることはないということがわかった。だからやめて二人でそのまま帰ることにした。次の日、その友達には「ああいうことは言わないでくれ。少なくとも彼女の前では」と伝えてその後はなにもなく終わった。

アカデミー賞俳優と田舎の高校生を一緒にするなと言われるかもしれない。でもね構造は同じなんだよね。暴力とは決して正義の鉄拳などではなく「痛み」でしかないということ。痛みは人に気づきを与えない。憎しみや哀しみを増幅させるだけ。大学時代、体育会系サークルに所属してた下級生時代、生意気だった僕は先輩に目を付けられよく殴られてた。とにかくよく殴られたし、1年の時の合宿では殴られすぎて顔が腫れた状態で写った写真が残っているほど。そんな時も彼らは殴りながらこれは教育だの躾だのいろいろ言ってたけど僕は2年になったらこいつら全員呼び出して痛めつけてやろうとしか思ってなかった。いや本当に殺そうかとまで思ってたくらい上級生を恨んでいた。暴力なんて何も生まない。憎しみ以外は。

今年は濱口監督の受賞などいいニュースもあった中で、ウクライナ問題などもあり暗い影がさしたのも今回のアワードの特徴。ただお祭り騒ぎしてればいい時代ではないということだ。

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