誰とでも話す事は可能か?
「ネット社会」においては会話で意思疎通ができない事が恒常的になって来ました。
これはネット特有の匿名性によるところが大きいとされており、ネット利用を実名登録制にして実名顔出しにすれば抑制されるのではないかとされています。
しかしどう影響するか不明な上、委縮してネット利用者自体が減少し言論空間としては今よりも制限されたものになるという研究もあります。
そもそも制裁を恐れて表現しなくなるだけでは本心を隠しているだけに過ぎず、また多様な考えに接っする気付きの機会も失われてしまうでしょう。
ここでは法的な問題点ではなく心理的な側面から健全なSNSは成立しうるのかについて検討してみたいと思います。
罵倒する心理
昨今モンスタークレイマー、モンスターペアレント、カスタマーハラスメントなど社会的に反撃できない立場の相手を酷くなじったり土下座しての謝罪を強要したりといった問題が取りざたされておりSNSにも通じる部分があるように思われます。
こういった行為をする者たちは心底意地の悪い人間なのでしょうか?
恐らくは相手が悪い事をしたから自分にはそれを指摘して正す権利がある、と思っているようです。
しかし古来より世間を震撼させた凶悪犯も処刑される直前まで「俺は悪くない」「全てはお前らの責任だ」と非を認めないどころか犯罪を正当化する事があると言います。
悔い改めたら敗北を認める事になると強がっているのか、本当に自分は良い事しかしてこなかったと思っているのかは不明ですが、残忍な凶悪犯であっても心から打ち解けた場合は本心を吐露し、後悔の念を口にする事もある事から100%悪心から出来上がっている人間と言うのはほぼおらず、人の行動原理は概ね「善意」に基づいているとされています。
良い事をしているという意識から、また悪い行いを罰する事で公平な社会や自己利益の確保をして構わないと言う意識を履き違えて、反論できない立場の相手を厳しく追い詰める行為が正当な行いであると勘違いしている可能性があり、善意が独善的であれば受け入れ難いものになってしまいます。
デマを飛ばして相手を貶めたりルールを守らない相手は厳しく糾弾すのに自分はそのルールに従わないどのダブルスタンダードについても同じ心理作用が働いていおり傍から見れば不合理ではあっても当人の中では何らかの整合性が取れていると言う事なのでしょう。
したがって昨今のデマやフェイクニュースの氾濫もSNSなどにその責任を求める論調が見られますが匿名性はそれをブーストさせている事はあるにせよ、歪な思考様式の根本原因は別に求める事が妥当でしょう。
直感は瞬時に、理由は後から
ソクラテスの時代から人は論理で物事を考えるから他の動物とは違うとみなされています。
しかし人が判断を下すプロセスはまず直感に基づいて短絡的に判断を下し、後からそれに対する論理を後付けして考えるようです。
これは生存のための反射的な脳の働きとその後の生物学的な進化や思考の発達によってもたらされた変化だと言われています。
したがって個人レベルでは直感が優先されますが、それを社会集団にそのまま持ち込むと集団生存と相反する事が起きて、色々と不都合なことになります。そのため、人間は我を抑圧してある程度所属する集団の論理に従う事になりました。
民族や地域の文化的背景や宗教観、道徳観念によって個人と集団の関りは変わりますので自ずと政治的姿勢も分かれていく事になります。
直感に従う事と集団の理論に従う事はどちらかが正しいという事ではなく同時に存在する事になりますが議論をする場合、根底はどちらの理論に基づいているのかを意識しなければなりませんが、「あなたは間違っている」と言ってみても感情を否定するのであればそれは極めて困難であることが分かります。
「確証バイアス」は認知領域において論理的な思考を駆使し専ら自分の直感を補強する自己防衛機制として作用しますが他人の志向を突き崩すのは得意ではありません。
人類進化の改定ではIQを自分の主張のために使ってきた事が伺われます。
ジョン・スチュワート・ミルの「危害原則」からすると奇妙な事に思えるダブルスタンダードも自己ないしは自集団における内在的理論を拡大解釈して正当化しているものと思われます。
性格を決めるもの
リベラルな人は新奇探索傾向が強く、保守な人は変化を好まないと言う傾向があるのは想像に難くありません。
その要因を決めるのは親の影響や教育や集団の文化など育った環境によるとされてきましたが、近年は遺伝子が性格に影響を及ぼすと言う研究も増えて来ました。
rs6754640という塩基配列のAA,AG,GGの遺伝型が好奇心の強さに影響していると言う研究では日本人や東アジアの人々はGG型が比較的多く、新しいもの好きであるという傾向が認められるようです。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/snp/rs6754640
好奇心と警戒心がその時々で有利不利に作用して生き残って来た結果、個人や集団の生存戦略に相互に影響を及ぼして来た名残とも言えるでしょう。
また、人は自分の考えに似た集団に居ると心地よく感じるため、自分の思考と似た集団に属するようになり、その中で自分の考えが補強されていきます。
よほど意識していない限り反対意見や違う価値観に接する機会は減っていく事になります。
道徳規範のような欧米(W)啓蒙(E)産業化(I)裕福(R)民主的(D)(WEIRD)な価値観は世界では少数派と言う事になりますが、海外で暮らした事が無ければそれに気付く事すらなく、基本的な道徳を解しない未開の野蛮人と話す事はない、或いは正しい行いが出来るように教育し管理してやらねばならないと言う結論にたどり着きがちです。
「多様性」がもてはやされる現代においても、彼らの言う多様性が多様な文化の在り方を排除する方向に作用している事が見て取れます。
道徳心を呼び起こすトリガー
赤ん坊が笑っている時、か弱い動物を見た時など弱い存在に人が共通で呼び起こされる感情というものがあります。
この心の仕組みは感情に根差した「本能的なトリガー」といえるもので、共助やケアに繋がってるとする研究があります。
一方、文化的背景によって決まって来る道徳規範というものもあります。
例えば「お天道様が見ている」と言えば多くの日本人であれば悪い事はたとえ他人にバレなくてもやってはいけない事と諭されて育って来ていると思います。
人は監視されていない状況ではズルをしがちであると言う実験から集団生活を営む上で誰かがズルをする事は許されず、集団から排除される場合もあり、それを起こさせないための先人の教えと言えるでしょう。
これは「現状のトリガー」とも言えるものです。
その多くは協調する、ズルをしない、ズルを罰する、脅威は排除するといった集団を維持する為の規範に通じるもので、古代には宗教がその役割を担って来ました。現代では社会秩序を維持する法律の規範として「道徳」が存在します。
社会心理学者ジョナサン・ハイトによると道徳は
ケア/危害
公正/欺瞞
忠実/背信
権威/転覆
神性/堕落
自由/抑圧
に分類できるそうです。
左の項目が基本となりますが、状況によっては右側にスイッチして良いという揺らぎがあります。
例えば「権威」が腐敗した場合、選挙や場合によっては革命によって「転覆」して改善方向を目指す、という事になります。
自己の「自由」も集団の利益に反する場合は抑圧されるし、集団の自由も対抗集団との競争によっては貿易や条約などで抑圧される、と言ったように考えられます。
従って価値観は絶対的に固定されるべきものではなく、状況によって振り子のように振れてバランスを目指すものと解釈できるものである筈と言う事です。
リベラルと保守の違い
政治姿勢を示す「リベラル」と「保守」と言う分類があります。
リベラルは「革新」とも言われますが、本来は穏健で個人の自由の拡大を目指す思想でした。
一方の保守は英語では「コンサバティシズム」となりますが、伝統や法を重んじながら、現状にそぐわない部分があれば少しずつ改善していこうと言う政治的な立場になります。
(双方の納得できる部分を取り込んだ「リバタリアン」(自由至上主義)というのもあります)
この二大政治立場が対立した背景は日本の保守が改憲、革新勢力が護憲である事を見ても国によってもまちまちなのですが、対立の根本は究極的な目的が違うと言う部分に起因します。
これまで述べたように自分の利益拡大を目指す基本姿勢に対する戦略は人によって違います。
個人が制約を受けず最大限の権利を持った方が良いという考えと、自分の所属する集団の利益を最大化すればそれは自己利益も拡大する事なので集団の利益拡大を追求する方が良いという方法論の違いでもあります。
民主主義と言えど集団の中でルールに従わず自由気ままに振舞う者がいれば不協和が生まれ、集団が崩壊するのを防ぐためにも異分子としてパージされてきました。
前出のジョナサン・ハイトの研究によればリベラル志向の人は「ケア」と「自由」「公正」に強く反応を示し「権威」「中世」「神性」への反応は高くないそうです。
一方の保守や中道の人は全ての項目に反応を示します。
アメリカの例で言えば民主党はケアや平等を争点にしますが、忠誠や神性を重んじる人には偏った思想に見えていると言う事が自分達の「堀の中」にいるので気が付かず人種や移民、性多様性を解しない相手を激しく敵視します。
リベラルは新たな法律を作ったり既存の法律を排したりしがちですが保守は今の法を改善する道を模索します。
これは積極的か消極的かと言う事もありますがリベラルは理念先行であり、保守は法やルール、伝統には先人の試行錯誤が凝縮されており自分達の考えるような事はとっくに試したのちの結果が現在であるという事から新たな試みはどんなリスクを見落としているか不透明なため改良は最小限に留める方が無難であると言う意識が働いています。
「平等」は人類全体に資する理念ですが、人類は個人で成熟できるわけではなく集団の中で育まれると言う進化を経て来た事から集団帰属が前提となっています。
そこでは集団を維持する宗教や法治の概念が必要とされてきました。
一方で抑圧からの解放というのも人類が次のステージに上がるのには必要と思われますが、これはどちらか一方が正しいというものではなく陰陽のように対を成しバランスが求められるものであるはずです。
説得は可能なのか
考えが違う相手を排除しがちになる政治理念や宗教が違う人を説得する事は可能なのでしょうか。
結論から言うと、いかに相手の考えに欠陥があり間違っているかを諭したところで考えを改めさせるには至らないと言えるかと思います。
それは事実認識や理屈が不完全とか言うよりも間違いを指摘された相手はプライドが傷つけられた事に憤慨し、相手の話をもう吟味することなく拒絶するようになります。
しかし冒頭に挙げた本心を吐露した凶悪犯の例からも人の考えを変える事は可能な事があります。
これは会話テクニックの話となりますが自分の主張を押し付けるのではなく相手の言い分を聞き、共通点を探る事に尽きるようです。
人は直感が先に立ちますからそれを論理で崩す事は難しくなりますが、自分の存在を認めて欲しい、自分に関心を持って欲しいと言うのはどんな人間でも共通でしょう。
言い方が悪いかもしれませんが、その心理を逆手にとって掌の上で転がしてやるくらいの気持ちにならなければ「争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない」を地で行く事になってしまいます。
移民反対であっても移民に理解を示す人との対話で
「なんで俺の税金で外国人なんかを食わせてやらなきゃならねーんだよ。外国人は出ていけ」
と言ってしまったらそこから先はもう罵倒合戦にしかならないだろ事は想像に難くありません。この場合、
「確かに移民の人は問題があるから国を出てきているのですよね。母国ではどんな問題がるのでしょうか。それを解決できれば自分の国で幸せに暮らせますね。日本が協力して解決できる事は何でしょうか?」
と答えれば人によっては貧困や失業問題、或いは独裁政権の弾圧などに目を向けて問題を掘り下げ発展的に会話を続ける事が出来るかもしれません。
小手先の技巧を弄する事に抵抗がある人であっても、自分の考えを評価してくれるのを嬉しく思わない人は居ないと言う事を思い出して、まず相手の言い分を聞いて共感できる部分について掘り下げるように誘導すると言う事が大切であり、SNSはあまりそれに向いた造りに放っておらず、むしろ対立を煽って過激な方向に向かわせるツールとして機能していると言う事を常に注意する必要があるのではないかと思います。
参考書籍
・話が通じない相手と話をする方法――哲学者が教える不可能を可能にする対話術
・社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
・人を動かす 改訂文庫版
・The Intelligence Trap: なぜ、賢い人ほど愚かな決断を下すのか
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