「日本の電子部品産業」の発展を読み解く
日本の電子産業の隆盛を支えた電子部品は高い質とコストパフォーマンスで家電産業が衰退していく中でも存在感を示し続けています。
その源泉はどこにあったのか。
よく言われる日本の「勤勉な労働者」が下支えしたのは間違いないでしょう。
しかし戦前、戦中期の日本の製造業はこうした「勤勉な労働者」のスキルに依存した現場主義で規格で示された数値はあくまでも目標値としての性格が色濃く、部品を取り出し別の製品に取り付けるのには調整しなければならず品質も生産効率も現代の工業製品に比して及ばないものでした。
日本の産業が真の意味で「規格」を体得したのは戦後復興期、アメリカの工業に触れてからになります。
戦後は物資不足からGHQにより「統制経済」体制が敷かれました。
こうした中でいかに日本の電子産業が復興し発展して来たかについて振り返ってみたいと思います。
(半導体事業は別の記事で扱っている大きなテーマなので今回は割愛します)
ラジオ産業の勃興
関東大震災の記憶も新しい1925年に開始された日本のラジオ放送は、日中戦争を経て太平洋戦争に入ると不採算などからチャンネル数は抑制されこれに準じたラジオ受信機(以下、ラジオ)の放送局型受信機、やがて物資不足から粗悪品が溢れた事から国策型受信機として規格化されました。
しかし戦局が悪化するにつれ生産は縮小、終戦の年の1945年には完成品は前年の1/3にまで減少しています。
終戦後は連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAPによる管理統制経済によって真空管や銅、銑鉄などの資材が分配される事になり、日本側の受け皿組織として戦時立法で設置された大手ラジオメーカーの電気機械統制会の流れを汲む無線通信機械工業会、そして部品商らからなる日本ラジオ工業組合が組織されます。
ラジオには戦中から公定価格の設定が引き継がれたため戦後も実体経済のインフレ率から乖離しており大手ラジオメーカーの収益は悪化しましたが、市中の部品商や卸業が部品を市販した事で闇市などを通じてラジオ部品がアマチュアも入手可能となった事から「組立てラジオ」が活況を呈します。
戦前から物流の集積地であった東京・秋葉原駅や戦時中疎開していた卸業が集約した大阪・日本橋に問屋や部品メーカーが集まり後の電気街を形成していきます。
特に日本橋は全国への配送を担うことになり、西日本や九州などの地方都市にも販路を開拓していきました。
このため部品メーカーは大手ラジオメーカー系列や「間口三間」の起業したばかりのメーカーまで乱立し、高品質製品の粗悪な模造品も出回りましたが、部品メーカーは独自のブランド化により他社との差別化を図り一部のブランドはその高い品質により人気を博しました。
これは後にラジオメーカーによる品質管理にも及ぶ事になります。
1950年代になると朝鮮戦争の特需、ラジオの公定価格の見直し、組立てラジオブームなどもあって活況を呈しますが、数年後には国内需要が一巡した事やインフレ抑制政策のドッヂ不況によってアメリカへの輸出の比重を高めつつ、市中に多く存在した部品メーカーは一部の大手ラジオメーカーとの取引があった有力企業以外は卸業に専念したり、送電線用の大型トランス製造に業態を変えたり、またトリオや山水電気(後のサンスイ)、福音商会電機製作所(のちのパイオニア)のように得意部品を活かしたオーディオメーカーに転身したりするなど淘汰、再編が進んでいきます。
大手ラジオメーカー系列の部品メーカーはラジオメーカーの置かれた状況によっては全品検品以外にも認証工場を取得する事で納品の検品を免除されたりしたようです。中には生産技術指導だけでなく製造装置や検査機械を支給したり設備投資資金を融通したりといった資本関係を強める関係もありましたが、そこから漏れた中小の部品メーカーは卸業を通じて部品を外売する事になります。
これは自動車部品のような専用部品ではなく、あくまで「汎用部品」で組み立てられたラジオの特性から、また大手ラジオメーカーに納入するよりも多くを生産しうる量産体制の確立によって成立しうる軽機械産業の特徴によるものだったようです。
朝鮮戦争特需のもう一つの意味
1950年から始まった朝鮮戦争に参戦したアメリカは日本の産業界に軍需品をはじめとする物資補給基地としての役割を求め、これに応えた事で日本の景気が上向くことになりましたが、直接的な買付けによる利益が注目されますが、アメリカ軍向けの軍需物資には米軍の独自規格が制定されており、この要求を満たす産品を納入する必要がありました。
第二次世界大戦まで真の意味での大量生産に必要な標準化を体得とは言い難かった日本ははじめてこの問題に向き合う事になりました。
PDCAサイクルを提唱したアメリカの統計学者ウィリアム・エドワーズ・デミング氏が来日し、日本企業の技術者や経営者に統計学的手法で設計/製品品質/製品検査/販売手法を伝授した事で、日本企業の経営効率が改善されるとともに産品の品質が向上したと言われます。
この時期の技術的底上げや大量生産に関する知見の普及が後の60年代高度成長の要因の一つになったとされます。
トランジスタラジオ
1955年までには乾電池で動作するイヤホンを備えたポケットに入るポータブル真空管ラジオが人気を博し輸出されたアメリカ市場を席巻する勢いでした。
アメリカでトランジスタが実用化されると小型かつ小電力で真空管のように「玉切れ」もしないメリットから能動部品として真空管に代わりラジオにも導入され、日本製の真空管式のポータブルラジオが販売不振に陥ります。
東京通信工業(後のソニー)の井深大がトランジスタの先進性に可能性を見出し、同じく森田の国内外各方面への折衝が実を結び、特許権を買い取りこれを元にトランジスタ製造に乗り出しトランジスタラジオとしてアメリカに輸出、これがヒット商品となった事でソニーという企業がグローバル企業になる足掛かりとなりました。
一方、国内で真空管ラジオを製造していた各メーカーもトランジスタの製造を志向しますが時の通産省から技術移転を受けるための許可が下りず、先行するソニーから外販を受ける形でトランジスタラジオの製造に漕ぎつけます。
しかしこの時代、肝心のトランジスタの品質が安定しませんでした。
これに対応する為、一台一台について部品のバラツキに合わせて微調整しながら組み立てるという戦前、戦中の規格が用をなさない歴史が繰り返され、結果として日本製トランジスタラジオの評判は低下し、同時に香港や台湾での組み立ての台頭からトランジスタ自体の価格の下落もあって日本製トランジスタラジオの価格も下落していきます。
これに対して業界団体で最低輸出価格が設定されましたが下落は最低レベルに達します。
しかし1950年代後半になると白黒テレビが一般にも普及し始めます。
ラジオに比べるとそれぞれの電子部品を数倍使用するテレビは部品メーカーの恩恵をもたらすと同時に膨大な品種の生産・在庫・流通各段階の負担が問題視され、組立てメーカーにも標準化規格の必要性が認識されます。
多品種化とJIS規格
標準化規格には
・国際規格(条約締結国間の統一規格)
・国家規格(公的機関の定める規格)
・団体規格(教会や業界団体が定める規格)
・社内規格(企業が独自に定める規格)
等があり、官公庁規格や地域規格が含まれることもあります。
日本においては国家規格から団体規格(デジューレスタンダード)、そして社内規格の順番に制定されており戦後には日本産業企画(JIS規格)が定められましたが、品種が多い電子部品においては寸法などの互換性についての指定が主であった事と改定に時間がかかってメーカーの頻繁なモデルチェンジに対応出来ず、電気関連や織機関連団体で定めたCES規格で公差などを定めた段階になって合理化が進み生産拡大に貢献しました。
納品検査を免除される条件として製品の不良品に対する製造物責任を負う事になる部品メーカーは不良品を調査した結果、指示ミスによる造り間違いや納付ミスが不良率をあげてしまう要因になっている事を突き止め、多品種少量生産については「標準部品」を納入先の要望に応じて「部分変更」する「特注品」扱いとして対応しようとしました。
これは自動車部品が完成車メーカーの「承認図部品」制度による特注品である事に対して汎用性を備えた電子部品ならではの対応でしたが、標準部品価格と特注品価格の二重価格を設ける事は結果として納入先メーカーからの特注品の値下げ要求に繋がる事もありました。
デジュールスタンダードとデファクトスタンダード
産業が発展する時、「技術のS字カーブ」を描くことがあります。
発明期から発展が始まるまでは緩やかに推移し、発展期に入ると急激に普及し始め、やがて衰退期を迎えると言うものです。
この時、乱立する製品により生じる様々な混乱に対し標準化(規格化)を求める声が高まりますが標準化が早ければ成長を阻害しかねませんし、遅くなれば非効率な状態が固定化してしまいます。
産業の質によって国家や公的機関が形状や作業手順、材質などを定めるデジューレスタンダードが先行するか、既に市場において支配的存在になっており、後発製品が取って代わる事が難しいとされるデファクトスタンダードがありますが、標準化(規格化)には品質を一定に保つ役割の他に関係者全員の利害を調整する役割もあります。
完全に公平な規格策定と言うのはあり得ず常に誰かの利害と衝突しますが、公が権力で決めてしまうか、業界団体が間に入り調整役になり、取りまとめることになります。(既に事実上業界標準になっているデファクトスタンダードは余程不都合がなければ覆らないようです)
従って規格を取りまとめるのは困難を極めますが一度標準規格が定まると効率化と競争が活性化し、規模が拡大する契機になるため、標準化は需要や時代の変化に則したものでないと発展阻害要因にも成りかねないため、全てをきめ細かく規定するよりは、計測手法などの標準化手順を定め、具体的な項目は状況に柔軟に変えて行ける方が有用な指標に成りえると言えるかもしれません。
日本の電子部品は半導体部品の時代を迎えると民生機器IC化共同研究委員会の分科会で役割を分担し信頼性の確保に努めています。
日本の対米輸出販路を構築
戦後の真空管ラジオに始まり、白黒テレビ、トランジスタラジオ、カラーテレビとアメリカ市場に輸出している中で現地のメーカーとの直取引(OEM)、現地の商社取引による販売網への委託といった複数の販路が出来上がり、新製品を海外販売しやすくなりました。
それと同時に香港や台湾、韓国などに立ち上がった外資系の組立工場やそこへ納入する地場部品メーカーとの競争が始まります。
トランシーバーやVTRといった需要の発生と認可規制や大量発注による在庫のだぶつきによる注文の急減などの不確定要素により電子部品の必要量は常に変化し、電子部品メーカーはセットメーカーとの力関係からこの変動を吸収しなくてはなりませんでした。
これは戦後直ぐの真空管ラジオの時代から続いてきた業界的慣習であり、部品メーカーは特定のセットメーカーに依存するのではなく、汎用部品化して小変更で特注に応えられる体制と新規販路を開拓する体制が作られて来た所以でしょう。
実装技術競争
時代が進むにつれ、実装される電子部品の小型化が求められました。
電子部品微小化技術研究会は部品メーカーのみの集まりでしたがこの時代に求められる技術水準や顧客との協業体制に依存し脱落するメーカーも見られるようになります。
中でも表面実装技術は極小部品を樹脂基板に直接取り付けられるため部品としての多様化が進む事になります。
松下の「ハイミックス」とソニーの「ユニバーサル混成集積回路」がそれぞれ提唱されました。
これは実装部品に規定された形状から「角丸戦争」と呼ばれ、それぞれに一長一短がありましたが、結局松下の「ハイミックス」仕様が業界標準となっていったことが後のVTRのVHS方式普及に影響したとも言われ、またこれらの高度な実装技術の確立が日本の部品産業の国際的な競争力になっっていきました。
1985年以後、プラザ合意による円高政策で苦境に立たされた製造メーカーの製造拠点の海外移転に合わせて製造メーカーから納入部品の値下げ圧力が増大した部品メーカーも生産拠点の海外進出を加速させ追従する事になります。
グローバルサプライヤーとしての部品メーカー
中国への進出
台湾、韓国のメーカーに合わせて中国東北部に進出、また1999年の中国国策による電子産業保護育成政策による地場メーカーの台頭により部品需要が増大した事で商機が生まれ、日本の部品メーカーも進出を加速させる事になります。
中国では外国企業が現地工場に指示、生産管理も行う委託加工形式が執られました。これには煩雑な手続きが必要になる現地法人を設立しなくて済むメリットがあったとされています。
「転廠」という特別な制度により直接顧客の工場に納入できるようになり中国でのサプライチェーンが構築されていきます。
また、中国国内の商法や商習慣の違いからのトラブルを避けるため香港を経由するやり方が執られる事もありました。
2004年から外資100%でも輸入取引が解禁されたことから人件費の高騰や価格競争にさらされた部品メーカーは独自の現地法人設立に動きます。
立ち上げ初期、不安定な中国企業との取引より支払いもしっかりした日系企業との取引が好感され事業を早期に安定化させる事が出来たようです。
部品メーカーは各々の販売網を駆使して現地の取引先と定例情報交換会開催や人材交流を行い現地のニーズを把握し商品開発に役立てました。
進む現地化と多様化
プラザ合意からの円高を背景に家電メーカーの生産拠点が海外進出するのに合わせて国内の電子部品メーカーも海外生産体制に移行し、その後の組立メーカーの撤退後も海外の生産、販売拠点を活用して大手電子部品メーカーの売上げ比率の7~9割が海外依存になっています。
日本の製造業のグローバル化は日本でのやり方を現地に持ち込む形が多く用いられましたが、部品メーカーは現地採用を増やし続け現地化に適応し維持する事に成功しています。
しかし日本の経済地位が低下し相対的に日本の「安さ」が顕著になってきた2010年代半ば過ぎから部品メーカーでも生産拠点や研究施設の国内拡充の動きが見られるようになりました。
自社販売網を通し業界の需要やトレンド予想を先読みして、国内回帰と海外シェアの維持・拡大が今後の課題となりそうです。
自前主義の衰退
1980年代、製造業が衰退したアメリカでは大企業のイノベーションから大学とベンチャーのイノベーションにシフトしていった事から水平分業が受け入れられる素地が出来上がっていました。
垂直統合に拘った日本の組立メーカーはその後のトレンド転換やデジタル化の変革への対応が遅れ世界シェアで失速していく事になりましたが部品メーカーは製品のライフサイクルの短さや需要変化への体制からたゆまぬ研究開発を継続しており業界水準で10%以上、5.5%なら上出来の他業種よりも高い営業利益率になっています。
それでも大手は各社一千億円規模の研究開発日を投じて次世代要素技術の確立を目指してオープンイノベーションで協業を模索しています。
2000年代後半になるとバブル崩壊で過剰投資から事業縮小を余儀なくされた電気メーカーから半導体事業などの事業部門を買い取るなどして部品メーカの枠を超えて経営を多角化する部品メーカーも現れています。
まとめ
戦後、本格的に立ち上がった日本の電子部品産業はラジオやテレビを販売する組み立てメーカー(セットメーカー)と共に技術力を高めつつも不安定な需要に対応する為、常に多様な販路を開拓して来た様子が伺えます。
その経験が円高不況からの海外進出でも活かされ、高い品質と技術力、多様な販路を開拓する企業精神とが相まって、日本の電子産業が衰退する2000年代以降も堅調な成長を続け、世界でも高い競争力を維持しており、経営多角化など安定期にも攻めの経営を続けている姿勢が印象的です。
参考資料
・書籍
・web資料
ラジオ産業における生産復興の展開 中島 裕喜
https://core.ac.uk/download/pdf/291345779.pdf