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長男の不登校 and

 結局、長男はたしか1年半近く学校に行かなかった。その間、私がお世話になっていたカウンセラーさんが亡くなり、「いつまでこの生活をしていればいいの?」と思いながら過ごしていた。

 そう思っていたら、学校の担任の先生から受診を勧められ、地元の大きな病院へ通うことになった。月に一度の通院生活が始まった。息子は小3になっていた。

 長男の不登校が始まってすぐに、私は近所で働いている人のお子さんも不登校だという話しを耳にしていた。うちの子より少し年齢が上のお子さんだったが、そうやって子どもと離れる時間を持っている人もいると知った。確かに、24時間一緒だとお互いに息苦しくなるから「そういうのもありなんだ!」と目から鱗だった。当時、夫は営業をしていて比較的自由に時間をやりくりできたから、私は外で働くことにした。その間、夫が息子といてくれた。

 担任の働きかけもあり、6月ころから、私は息子と一緒に登校するようになった。初めは給食の時間だけ。子どもたちの輪の中に入れてもらって、息子と給食を食べて帰宅する。彼が友達と帰りたければ学校に残る選択肢もあった。そんな生活をしばらく続けた。就職して1年経ったころ、息子が授業を受けるために付き添いが必要になり、私は仕事を辞めた。廊下で椅子に座って待機する。教室と廊下の壁がない学校だったのでお互いの様子がわかる。そんな安心感があった。学校で過ごす時間が増えたことで、登校の付き添いだけして家に帰れるようになった。その後は登校も友達と行けるようになり、玄関で見送ることが増えていった。

 何らかの原因で消耗したエネルギーが休むことによって溜まっていって、自分から動けるようになったら学校に自発的に行けるようになった。

 長男と次男は2才違いだ。長男が小3、次男が小1になりしばらくすると、かつて長男の担任だった次男の担任から「次男さんに発達のテストを受けてきて欲しい。」と言われた。「えー😬⁈なにそれ⁈」「長男のみならず次男まで⁈えー⁈」と。ショックなんてもんじゃなかった。「どういうこと⁈」って。まぁ、でも直ぐに受診しようと気持ちは切り替わった。結果は「ADHDです。」と診断をいただいた。「ひとりを病院に連れて行くのも、ふたりを連れていくのも同じこと!」って、足かけ9年ほど通った。

 診断される前の年度、私はPTAで文化部委員長をやっていて、近隣の大学の先生に講演会で「発達障害」について話してもらっていた。その当時は他人事のように思っていたのに。
 ただ、その機会に校長と懇談するチャンスもあったので、「不登校児やその家族が『学校に来てください。』と言われないとどんなに気が楽か!」という話しを聞いてもらうこともできた。これも親族と揉めたお陰か⁈委員長を嫌々ながらも引き受けてよかったと思った。
 次の年度に文部科学省の「なにがなんでも学校に来てくださいとは言いません。」と発表があり驚いた🫨「校長先生〜、話しが早い‼️」そんな訳ないか😆

問題のおかげで子どもたちは身内から過剰な期待をされず、寧ろ本人のペースを大切にして手厚いサポートを受けることができたと思う。私も子育てに親身に協力してくださる信頼できる専門家がいてくださって本当に心強かった❣️

 結局、子どもたちが母である私を鍛えてくれたのだと思う。大人になりきれないうちに親になってしまった私を身を挺して育ててくれた。

 中学に行っても長男は相談室登校をしたりしたが、高校は自分に合った学校を選択し、皆勤賞をもらっていた。大学では心理学を学んでいる。「面白い🤣」って、一生懸命勉強している。モノマネもめっちゃ上手い!これからどんな大人になるのかな⁈

 長男に「あの時、何故行けなくなったかわかる?」と聞いたら、「わからない」といっていた。

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