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10/17 足立レインボー映画祭
足立レインボー映画祭 vol.2(@東京芸術センター)に行ってきた。今年の6月に始まって今回が2回目の開催だそうだ。
今日見たのは「I AM THEY」というノンバイナリ―当事者のドキュメンタリーフィルム。上映時間は60分で上映後には座談会も行われた。邦題の「I AM THEY」の「THEY」とはSheでもなくHeでもないノンバイナリーの一人称として使われている。
このフィルムを撮影したトランス女性(Owl)と、トランス男性(Fox)の2人のノンバイナリーが主人公だ。彼女たちは文明の利器である、Face bookを通して世界各国のノンバイナリー当事者とコンタクトをとりながら、ノンバイナリーというアイデンティティやルーツ、その課題を語りあげてゆく。
冒頭のシーンはノンバイナリーとして出演するTV出演前のスタンバイシーンから始まる。実際のTV出演時は、70代くらいの白人男性のMCが「私は今、自分が黒人女性だと言えばそうなれるのか?仮に私が象になりたいと言ったら、象になれるというのか?なりたいものになれると言うならそれでは収拾つかない」と声を荒げるシーンが抜き出されていた。
まるで魔法をかけるがごとくなりたい性別になれるというならば、それは単にエゴであるだけで本質的にアイデンティティの話とかみ合わないのは理解できるだろう。
出演後は「TSの存在を脅かされる」、「男、女の2つ以外の性別があるはずはない」など批判的なタイムラインで埋め尽くされ、直面する二人。
エンディングでは冒頭とは対照的に描かれ、批判を覆すように、タイムラインが当事者らの写真が新しい#(ハッシュタグ)であふれていく。SNSで軽いムーブメントとも言うような当事者らの声によって可視化されていく小さな希望を共有するエンディングである。
トランス当事者が脅かされる
トランスジェンダーが抱く性別観は男・女いずれかである場合も多く、身体つきを変えていくことで自分の性にそった生き方を実現しているように見られる。オウルとフォックスはトランスではあるが、ノンバイナリーを表明しているので、その点が矛盾をはらみやすい要因ではないだろうか。
なぜノンバイナリ―の存在はトランスジェンダーの存在を脅かすのか。Travis氏のシーンではノンバイナリ―またはトランスかで試着室についてアパレルショップともめたというシーンも印象的だった。身体的には男性であるTravis氏だが、それが女性、男性のどちらにあたるのかで主張する。様々な物議もあって結果的に店側がノンバイナリー向けの試着室を設けたらしい。その取り組みは性別途中の人にもニーズがあると主張していた。
性表現と性自認
トランスジェンダーには身体の性と、表現したい/したくない心の性が不一致がベースにある。その嫌悪感は人それぞれで、それにおいて治療をするのか、生殖機能をどう扱うのか。治療をするのであれば各人にとってアイデンティティを揺るがす大きな出来事であろう。
ノンバイナリーでありながら、男女いずれかの外見をしているならば、それは性別二元論を焼き写すだけではないかという声もある。後述するが、ノンバイナリーとして決まった形がないように、ジェンダーとセクシュアリティ、性表現は別物である。身なりが男女であるからといって、性自認もそこに固定されるものでもないため、自由に表現された結果がその人となって表れるだろう。ジェンダー・ノンコンフォーミングも近しい言葉である。
gender-nonconforming (ジェンダーノンコンフォーミング)
「性に関する旧来の固定観念に合致しない人。同性愛、両性愛、トランスジェンダー、性同一性障害の人などを包括した概念。いわゆるLGBTよりも幅広い」(アメリカ新語 - イミダス)
ノンバイナリーは、心ら身体ともに既存の男女二元論には属さないもしくは男・女の間を流動的に変化することを包括している。日本では似た言葉として「Xジェンダー」がある。これは男女そちらにも属するという意味合いが強い。また「ジェンダークィア」とも似た概念でもあるが、どちらがより広義を持つのかは曖昧であり、そのニュアンスも日々変化し続けている。
「ジェンダークィアとは?ノンバイナリー(Xジェンダー)とどう違うの?」 https://3xina.com/rainbow/post-2160/
ノンバイナリーは中性ではない
今作のテーマと言ってもよい「性表現」と「性自認」という概念は、性別が一致しないことを成立させる。つまり表現と自認は全く別の文脈に存在することになる。これを理解することで自分は随分と楽になった。
中性であることと、ノンバイナリ―であることは異なる。自分に身体と心でしっくりくるものが異なるもしくは流動的であるという事実が確信しているかどうかなのだ。
「なりたい私」が身体的願望を含んでいるならば、身体つきのいかんにかかわらず「心の性」は整合性がとれたわたしの性といえるだろう。
中性は性表現であるが、ノンバイナリーは性自認を含む。ノンバイナリーは、シスジェンダー、ヘテロセクシャルにとらわれることがなく、その人の数だけあるといってもいいだろう。
ノンバイナリーのパブリックイメージ
「ノンバイナリ―」と聞いて、身体的特徴など一般的にどんなイメージを持つだろうか。ノンバイナリ―の多くが、「痩せ細っていて、色白で、ヒョロヒョロとしたような身体の線が細い人」のイメージを持たれやすい。当事者の自分も以前からステレオタイプ的に、無意識の思い込みでもってそのようなイメージがあった。
しかし、この映画ではその点も興味深い指摘をしている。シスジェンダーを考えてみると背格好や性格にもいろいろな人がいるのだから、ノンバイナリ―にもや模範となるイメージは存在しない。しかし、有色人種のフォックスがいるようにその点について黒人のノンバイナリーも存在する。
ちなみに黒人のトランスジェンダーのマイノリティについて80年代のニューヨークを舞台にした海外ドラマ「POSE」(制作:ライアン・マーフィー)がおすすめだ。
ノンバイナリー同士の婚姻関係
婚姻関係を結べない現状に対して、抗議の意味を込めて彼らはノンバイナリーとして簡易的な手作りのウエディングを象徴的に挙げている。
イギリスでの婚姻制度は(レズビアン、ゲイなどの同性婚)を含めても、男・女性の性別を前提のもとに婚姻が認められているという。
**全体の感想
小さな日本で、一生のうちに自分にあう「ラベル」が見当たらなかった、見つけられなかった人はどれくらいいるのだろう。
わたしは冒頭開始直後から感極あまって言葉にならず、なぜか分からないまま目から涙がしたたった。
昔からずっと心も身体も片方に振り切れない感じを抱いていた。女性でなければ男性、男性でなければ女性というようにどちらに当てはまるのか、といわれるたびにいつも心の中では反発しながら生きてきた。
だからそんな自分に「ノンバイナリ―」という言葉がもたらすものは、その振り切れなさを包んでくれるのだ。
***
この日外出中に、母の家に父方の従兄弟のパートナー(女性)が来たらしい。帰国子女でもある従兄弟とは、成人してからめっきり会うことも少なくなった。
翌月には別の母方の従兄弟の婚約式があるらしく、親から人数合わせで出てほしいとプレッシャーをかけられている。
一方の自分はふわふわと形のない性の中をただよい続けている。それでも表明の一つであるから、自分を自由にしてくれる型のないラベルがあるならば今の自分はこれでいい、と思う。これにしかなれないのだよな、と思う。