傷つくよりも傷つきたかった話
人間関係にはパターンがある。
頭では分かっていてもわたしはよく攻撃されたり、職場の上司は高圧的だっただの、どうも面倒な人に絡まれやすい。
直近の職場でも私だけ休日に関して別室で呼びだされたり、どう考えてもおかしいって気づいたのです。
そんなことが職場をかえても、職場で話さないことで鼻で笑われたり、勝手がわからない就業規則でキレられたり、おとなしさから上司に近づかれたり、仕事も違うのに同じ職場にいるだけで同世代女子にマウント、張りあってこられたり、同じ新入りの人には言わないのに八つ当たりされたり。
こんな煩わしい人間関係が嫌だから非正規を選んでいるのに、出来事は小さいがここ2年ほど入社するたびにこういうことが起こる。
でも分析してみたところ、
私は人間関係の築きかたが傷つきの一択だった。
すでに傷そのものに麻痺していたんだろう。
オーラがあるといえば聞こえはいいが、新しい職場で次こそは淡々と仕事をする、そう構えてみてもなぜか私だけ?という、いいようのない気持ちがこみあげてくる。
生きづらさを感じる場面が、こっちではないよとしめすかのように、宇宙からのサインのようにながれこんだ。
なんどもチャンスはあったけれど
私は認めたくなかった。
自分の異質さを。
それが人間関係にでた。やりすぎか、しなさすぎかの極端でバランスが崩れ、なぜかついていけない。
むしろないと物足りない、かかわりを持てている気がしないのだ。
言いかえれば、わかりあえないものに手を差しのべれば、分かりあえるって信じたかったんだと思う。
子どものわたしが母親に見つけて欲しかったように。
心の意図や願いを現実に反映させるという「引き寄せの法則」はスピに詳しくなくてもだれしもきいたことがあるかもしれない。
私がコミュニケーションをしていくためには、自分がどこか傷つくための理由を相手から見いだす必要があった。
傷つくことを待つように両手を広げてそんな人ばかり探していたんだと思う。
そこに気づいたとき、いかに自分の存在を消すために適応しようとしていたのか、落とさなきゃ生きてこれなかったのか、そんなプレッシャーに胸が痛くなった。自分をせめたくもなった。
傷つくか否かで測るコミュニケーションではない関わりかたを学ぶ必要がある
自分のことを学ぶとき、どうしてもまわりの環境や置かれた評価によって
現状を分析してしまいがちだが、すべてはこれまでに沁みついてきた思考のパターンによるものである。
ショッキングな出来事なら、宇宙や神様から強制停止させられている感覚がわかるかもしれないが小さくてつもりつもってどうもうまくいかないことが続くことも、勘が冴えてくるとそれだけで違和感だ。
昔から社会にはなじめなかったけれど、20代前半で感じていたこととはどこか違う。
そのパターンを解きほぐすことによってようやくそれは意識して自分でも気づくことができる。