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捨てたい何か

 だれかがだれかの味方だと知ったって、(それが自分に対してもだったとしても)特別何かをする(与える)ことはしない、と最近、そう決めた。

そういう情報やら何がしか有益なものなんだろうけれど、それがただ自分に集まってくるだけで、そういう現象が起こっているだけ。としか捉えない。はたやビジネスの世界では誰がどういう情報源で、ネタを持っていて仲間にしておくと有益だって、思う人も多いだろうけれど。そういう人はだいたい見抜ける。

他者を使って有利になって自分の地位にしがみついていたいタイプなのか。
純粋に他者に手を貸してあげたい(giver)タイプなのか。
最近よく気にかけている言葉がある。
「giver」と「taker」といういわゆる(ギブ&テイク)の概念だ。

尽くす、尽くさないという言葉もあるように、他人に優しすぎるのもその本人が解決すべき人生の課題そのものを奪っているのではないか。手の施し様とは、いい意味でも悪い意味でも人は人だと自分が許容できる線引きを持つことだと思う。この人は自分にそれを伝えたところで何を期待しているのかなと思う。

自分がいるところで格好よく見映えを気にしてくれる。その人が自分だけに教えてくれる情報は有益なものかもしれない。
だとしてもその人は本当にそれだろうか。他の予定に対して時間をあしらったり、質問に曖昧にされる、スルーされてしまったことも見られたとしても?
人となりを知ろうとするとき、自分がいない時間の積み重ねの中に見えるものがあるのではないだろうか。

「(上司やら立場、権力性別で)この人はこうだから味方でいたいし、自分が分かってあげなくちゃいけない」って思う人も見かけた事がある。
その人の人となりも、社会の一部の場面でしか発揮されない立ち位置であったとしても、己の生きがいをそこに賭けているならそれもその人の考え方なのだろう。

ただ自分はどこに属してどんな人間関係に囲まれようと、だれの肩入れもしないでおこう、と思った。誰かを敵視するのでもなく、クールな自分を演出しているのでもなく。

だからだれかが自分の味方だとしたって、それが有益な情報だとしたって返そうとすることはしない。感謝はするけど深入りするのはプライベートで腹を割って話した時だけ。

具体的に言葉や行動にするのかはしたければすればいいし。何かを返さなきゃとか、タイミングを逃すまいと関係性もつなぎとめようとするのをやめた。

 自分を削ってまでやること(与える)は奉仕ではない。奴隷と同じで、犠牲であり自分を被害者に仕立ててしまうのかもしれない。何かを得たいがために「与える」という行為は自分にも相手にも負担が大きい。自分を被害者にしてしまうのはほかでもなく自分だ。

当時は何かをつなぎとめようとして、自分を削ってまで何かを返そうとする自分に酔いすぎた。今からでもそんな脆い関係性にはサヨナラを言わなくてはならない。

「何も価値を提供しない」選択肢をそっと加えてやるだけで自分が被害者で泣くこともないし、何より「返さなくては」という無駄なプレッシャーもだいぶ減る。 



大げさかもしれないけどたぶんこういうこと。
参考までに。https://kokoo.jp/used-by-people