自然の中の不自然な自然
私はロックバランシングのことを、「自然の中の不自然な自然」と表現することがあります。
それってどういうことかというと、例えば、浜辺とか河原とか自然の風景の中に、自然からは自然に生まれ出てこない不自然な造形を作り出す。それは奇妙で不自然な形をしているけれども、その自然の中にあるものを組み替えているだけ。だから自然にダメージを与えることもなく、自然と調和している。そして、儚く脆いそれが存在する刹那は、その自然の中に人間が存在することを主張している。
これって、自然と人間のかかわり方として理想的な形ではないかと思うのです。
人間も自然の中から生まれてきた一つの生物ですが、脳が進化して、いろいろな発明をして、長い歴史を経ながら道具とか機械、化学製品を次々と生み出し、それらを使いこなすことによって自然からはだんだんと遠ざかってきました。
ところが、ロックバランシングをやっている時の人間は、そうやって勝ち取ってきた文明の利器をいっさい使わないのです。経済を回すお金という利器すらまったく必要としない。使うのは手のみ。人間の生物としての個体が持つポテンシャルだけでやる行動なのです。
自然界にはいろいろな生物がいます。サルやシカ、イノシシなどの哺乳類、キジやカラスなどの鳥類、トンボ、カブトムシ、蝶などの昆虫などなど。彼らは皆、自然の一部として認識されています。それは彼らが利器を使わず生物個体のポテンシャルだけで営みをしているからでもあります。
ということは、ロックバランシングをしている時の人間は、彼らと同じ立ち位置で自然と関わっていると言えるのではないでしょうか。
作り上げたロックバランシング作品は、アリが作った蟻塚、鳥が作った鳥の巣、ビーバーが作ったダムのように見てもらってもいいのではないかと思うのです。そしてそれはニンゲンという生物にしか作れないものであることから、ニンゲンの生物としての個性も端的に語っているものになります。
現代人にも自然と触れ合いたがる人はたくさんいて、登山やキャンプに出かけます。そういう時はたいてい道具類を沢山持って入って行きます。その姿は自然にしてみたら、他から来たよそ者です。おおらかで大いなる自然はよそ者だって拒否したりはしませんから、それはそれで楽しく自然と触れ合うことはできます。ただし、図式としてはよそ者どうしのお付き合いなわけです。
一方、ロックバランシングをやろうと身近な自然に入っていく時の人間は何も持ち込みません。衣服こそ身にまとっていますが、それは決して必須ではなく、生物個体の能力だけですんなり入って、自然を痛みつけることもなく自然と戯れる。その立場はよそ者ではなく、しばらくどこかに行っていた奴が自然界のファミリーの一員としてふらっと里帰りしてきた感じになる。周囲の自然から浮き出た異質な存在ではなく、自然の一部として一体化した気分で自然の中に身を置くことができるように思います。便利な道具もお金も使わずにそうした豊かな時間を過ごせます。
普段は自然界の外にいて、気まぐれにちょこっと顔を出す都合の良い付き合い方になるから、ふたたび立ち去る時は、作品を崩して残さないのは自然に対する気配りでもあるのです。