ケネディ家の負けない嫁と、望まれていなかった娘と
(一枚の写真から生まれた歌がある)
ニール・ダイヤモンドが、再婚した妻マルシアに歌を捧げようと思った。
若くて貧乏なシンガーソングライターにとって、プレゼントできるものは、
それくらいしかなかった。
タイトルは”スイート○○○”に決めた。でも、マルシアでは語呂がよくない。
例えば、”スイート・キャロライン”のような、語尾のリズミカルな跳ねがほしい。とりあえず、マルシアではなく、キャロラインにした。
キャロラインで想起したのが、故ケネディ大統領の令嬢だった。
お母さんのジャクリーンと乗馬している9才のキャロランの写真(1967)があった。
母子は、とても幸せそうに見えた。
しかし、この写真から3年前、ジョンFケネディ大統領が狙撃、暗殺(1963)されていた。
夫が狙撃された時、パレード中のオープンカーからは、横に座っていたジャクリーンが、夫をかばおうとせず、座席から逃げ出そうとした。
このことで、ジャクリーンは、ケネディ家から厳しいバッシングを受けた。
そんなことより、ショッキングな父の死を、2人の子供たちにどう伝えるか、一人づつ別に話すか、ジャクリーンは悩んだ。
ところが、ケネディ家の保母が、子供たちにすでに話していたことを知ると、ジャクリーンは激怒した。しかし、これは、ケネディ家の指示だったことを知る。
嫁は信用されていなかった。
好みの女性を見つけては「私が他の女性とセックスをしなくなったら、体の具合が悪いと思ってほしい」という好色な夫に尽くす愛情は残っていなかった。
ジャクリーンの苦労を知っていた義弟のロバート・ケネディだけが、彼女を必死に守った。
それでも、ケネディ家は、ジョンを擁護した。
ジョン好みの一人、マリリン・モンローは「ジョンが私と結婚したいと言っているけど、いいわよね」という電話をかけてくるという話を友人から聞いた。ジャクリーンは「いいわよ。ケネディ家のギスギスした関係と、ホワイトハウスのドタバタをそっくり引き受けてくれるなら」と言ってやると息巻いた。
(動画は、ケネディの誕生日パーティに登場したマリリン)
ジャクリーンにとって、辛い日常を忘れられるのが、乗馬だった。写真には、悩みから解放された安堵の表情があった。
キャロラインにとっては「私には母親がいる」と、ほのかな幸せを感じ始めた頃だろう。
キャロラインには、実は、姉と兄がいたはずだったが、流産と早産で失っていた。
ケネディ家では、息子の結婚とは、男子の跡継ぎをつくることだった。
ジャクリーン26才、流産した胎児には、彼女は「アラベラ」と命名。しかし、墓標には「娘」としてしか彫られていない。女子は、ケネディ家には要らなかった。流産で保養していた妻の病室に行くも、ジョンは嫌がった。
27才では、死産。
そして28才に、3度目の出産で女児、キャロラインを授かった。
31才の4度目は、遂に男子誕生。ケネディ家が、ジョン・ケネディ・ジュニアと
命名。
ジュニアは、ケネディ家すべての期待をになった。一方、長女のキャロラインは、誰にも期待されず、放任教育で、のびのび育った。
この後、ホワイトハウスに入って、34才のジャクリーンは、男の子パトリックを身ごもったが、5.5ヶ月の早産1.6Kgで誕生、39時間で死亡した。
二人の短い10年間の結婚生活で、7年目に長男を誕生させても、ケネディ家の男子誕生の要求は、夫の不幸が起こった10年目も続いていた。
出産のためのセックスは、嫁にとっての重い義務と任務だった。
受胎のタイミングを測る体温計を口にくわえていた妻よりも、向こうのテーブルの笑顔の女性とのセックスを、スポーツのように楽しむのに、ジョンは、ちゅうちょしなかった。
外食の数と一夜を共にした女性の数は同じとも言われていた。
ジャクリーンの父親は、”ブラック・ジャック”と呼ばれた凄腕の株式仲買人だった。関係を持った女性は、両手両足でも足りなかった。
夫も父親と同じだと思ってがっかりしたが、驚かなかった。
枕を涙で濡らす夜もあったが、ジャクリーンは、ハリウッド俳優のウイリアム・ホールデンともベッドを共にしたこともあった。「彼女の夫が与えられない幸せを与えただけ」と言う政府高官もいた。
1968年には、唯一の味方のロバートも凶弾に倒れた。
「ケネディ家抹殺の次のターゲットは、私たちだ」と言って、ジャクリーンは、
アメリカを去ることを決めた。
2年後、ジャクリーンは、長男ジュニアをケネディ家に譲り、キャロラインを連れて、ギリシャの造船王と再婚(しかし、長男は、1999年、自分が操縦する飛行機で、大西洋上で謎の墜落死をした。彼女の恐れは、当たっていたかも知れない)。
「新しいお父さんはどう?」と聞かれ「好きじゃない」とキャロラインは答えた。
ニール・ダイアモンドは、二人の乗馬写真を見返し、いろいろなことに思いをめぐらせた。
初見では、幸せそうに見えた母子が、とても悲しい母子に思えた。
”いい時でも、そんなにいいとは思えない”ニールの肌感覚が、作詞のヒントになった。1時間もかからず書き上げた。
ニール・ダイアモンドが、妻へ贈ったパラドックスな歌が生まれた。
ビルボード・ヒットチャート4位のヒット曲になった。
1997年、ボストンの野球場でレッドソックスの試合の8回に、”スイート・キャロライン”を流して観衆が合唱するようになった。
きっかけは、レッドソックスの職員に女の子が誕生して、キャロラインと名付けたことから、内輪のことだけど、ちょっと祝ってあげようと演奏したら好評。続けることになり、ボストンのベースボールファンに自然に定着した。
2013年のボストンマラソンの爆破襲撃事件の時、ニールは、地元放送局に働きかけ、この曲をオンエアさせ、ボストン市民を元気づけようとした。放送印税は、被害者救済に寄付した。
2020年には、コロナ感染が国内に蔓延していた時、自宅勤務でバラバラになった人々を結びつけようと、”スイート・キャロライン”が、SNSを賑わした。
SWEET CAROLINE
♪(いい時って)いつから始まるんだろう
わからないけど
なんとなく気配を感じるもの
春の中にあって
春がやがて夏になるように
誰もそうなることを信じている
手と手をつなごう
腕を伸ばして、僕に触れて、あなたに触れたい
スイート・キャロライン
いい時って、そんなにいいとは思えない
今は、それが当然だと思うようになっている
夜を見てごらん
寂しいとは思えない
二人いれば、その寂しさなんてなくなる
心が傷ついたら
その痛みは後ろへ消えてなくなる
抱き合っていれば、傷つけることさえできない
温かい、触れると温かい
手を伸ばそう、僕に触れて、あなたに触れよう
スイート・キャロライン
いい時って、そんなにいいとは思えない
今は、それが当然だと思うようになっている♪
「1度目の結婚は愛、2度目は金、3度目は慈愛」と言っていたジャクリーンは、3度目を果たすことなく、1994年、65才でホワイトハウスのケネディ時代の華やかなパーティーを思い出しながら、好きだったカクテル、ネグローニを想像した。病変の早いリンパ腫が、臓器を破壊し、モルヒネが血管を巡っていく。
病室からセントラルパークを一望に眺める部屋に戻ったジャクリーンは、キャロラインとジュニアに見守られ、多くの友人、好きな書籍や愛好品に囲まれ、静かに目を閉じた。
「よーく頑張ったね」とねぎらいの言葉をみんな心に持っていたと思います。
今や、ケネディ家直系のただ一人の生存者になったスイート・キャロラインは、お嬢様学校のラドクリフから名門コロンビア大学卒業。NY近代美術館MoMAの渉外担当を経て、オバマ大統領の指名で、駐日本大使(2013〜2017)に。そして、バイデン大統領に指名され駐オーストラリア大使着任(2020〜)。
キャロラインの50才の誕生パーティで、ニールが歌った
♪いい時って、そんなにいいとは思えない
今はそれが当然だと思うようになっている♪
「こんなこと、小さい頃からわかっていたわよ」と、
スイート・キャロラインはきっと思っているでしょう。
※ご高覧ありがとうございました。
コンテンツは、米国のさまざまな資料から出典。事実と真実が異なる場合は、
多謝。