デ・ニーロが、メリル・ストリープを女優にした
<ショウファー8>
彼女の映画歴を見ると、複雑方程式を解く数学者のように、とても難しい役柄を好んで演じているように思える。
もっとも難しい役柄は、「ソフィーの選択(1982)」だったのではないか。
原作者は、女優ウスラ・アンドレスを想定して執筆していたが、ストリープは、監督のアラン・パクラに会って、文字通り「手をつき、膝をついて」懇願して役柄を得たという。
病気の母のために生肉を盗んだポーランド人として、ユダヤ人の強制収容所に入れられそうになり、抗議したのが、わざわいの始まりだった。
「お前の両手に抱えている2人の子供までは救えない。1人にしろ」と命の選択をさせられた。
我が子を殺した罪を背負い、強制収容所の雑役をさせられた。
終戦後、アメリカへ移住。製薬会社の資料室の閑職なのに、生物学者といつわっている妄想型統合失調症の夫の嘘とつきあい、一瞬の痛みですむ暴力を許す妻になっていた。
狂った夫に抱かれながら、人生を堕ちていく速度をからだに感じ、自然落下に身をまかせた。
映画「8月の家族たち(August:Osage County)」は、「夫が家出した」の知らせに、家族・親戚がオクラホマの実家に集まってくるところから始まる。
迎えたのは、妻であり、母のストリープが、ある病気で、余命宣言をされ、
”不機嫌な私にようこそ”と、来客にからんでいく。
夫との浮気でできた妹の娘や、その娘にクスリを勧める末娘の夫、言い争う別居中の長女ジュリア・ロバーツ夫婦など、よくぞこれだけトラブルを抱え込んだなという血縁者ばかり。
「思ったことを、思いっきり言えるのは快感だわ」
人生で負った傷口に、塩でもタバスコでもぬり込む”性悪女”をストリープは演じた。
ストリープが俳優を目指そうと思ったきっかけは、「タクシードライバー(1976)」のロバート・デ・ニーロの演技だった。
ストリープが女優になるきっかけをつくったのも、デ・ニーロだった。
イエール大学で演劇を学んだ彼女を、「ディア・ハンター(1978)」での、
彼のガールフレンド役に推薦した。
ストリープが言うように「どこの田舎町にもいるような目立たない女性を演じただけ」だったが、アカデミー賞助演女優賞を獲得した。29才だった。
彼女以外にもたくさんアカデミー賞を獲得した大作になったが、撮影現場の問題も大きかった。
デ・ニーロが推薦したもうひとりのジョン・カザールは、2年の余命宣告をされていた。
酸素吸引器がなければ演技ができない重篤な肺の病気だった。
監督のチミノは、撮影中に亡くなったら、すべてのカットの撮り直しが必要になるため、降板を要求した。
しかし、「今、彼を降板させることは、彼の生きがいを奪ってしまう」と、デ・ニーロは、かたくなに拒んだ。
駆け出しの新人ストリープも腹がすわっていた。デ・ニーロを助けるために「カザールを降ろすなら、私も降りる」「現場の彼の看護は、私がする」と、戦った。
ストリープは、女っぷりがいい。
リスクを軽減するために、1)彼の出演シーンを最優先して撮影する2)デ・ニーロが、損害保険料を全額払うことで、映画会社を納得させた。
しかし、その後も、腫れものに触るようにガゼールに接したり、急なスケジュール変更もあり、スタッフの不満はくすぶっていた。
例え治療であっても、言い訳はきかない。カザールの撮影に穴をあけないよう、ストリープは、彼の宿泊先に泊まり込みで看護した。
ストリープの献身的なケアがあって、無事にカザールのシーンがすべて撮り終わった。
しかし、撮影が終わっても、花束や、看護師が待ち受けているわけではなかった。
集められた不機嫌なスタッフを横目で見ながら、ストリープは、死をかけて戦った俳優がここにいると思った。
彼の車椅子を押しながらストリープは、死を覚悟しているカザールと同じ心で、これからをうけとめていた。
病院が嫌いで、自宅での終末療法を希望していたカザールを、準備した眺めのいい部屋に連れて行った。
同居して看護することが運命のように、彼女の心にゆらぎはなかった。
カザールに情欲を抱いているとタブロイド紙の記者の疑い深い視線に耐えて、仕事を続けながら介護を続けた。
それから2年、1978年、彼が息をひきとるまで、ストリープは看病をやり遂げた。
デ・ニーロが駆けつけ、ストリープを抱きしめた。
2年分の涙が、ストリープの眼から流れた。
その後、「喪失の痛みと同化するしかなかった」ストリープは、
どんな強者よりも強くなった。
(※メリル・ストリープのリムジン会社、車種など、セキュリティ及びプライバシー遵守で公開が禁じられている)