息子の髪に触れながら、キスしたかったけど、彼はそれを望まなかっただろう
愛が届かない。
父はもどかしさを感じていた。
40代の息子と、60代の父親の間になにがあったのか。
40数年前、生まれた息子は、自分にそっくりだった。
父は、息子を、ロバート・デ・ニーロ=ジュニアと名づけた。
しかし、息子ロバートが2才になったとき、夫婦は離婚。
離婚の原因をつくったのが、詩人のロバート・ダンカン。
「社会におけるホモセクチュアル」(1943)を著し、ゲイの人権擁護・確立を提唱した先駆者だった。
ダンカンに共鳴したデ・ニーロは、妻に自分がゲイであることを告白した。
妻は「あなたは、同性を見る目が違っていた。気になっていたけど、異性じゃないからやり過ごしていた」
「あなたの心は変えられない」と、あっさり離婚を承諾。
その代わり、息子の親権を放棄。
3才のデニーロは、父方の祖父母に引き取られた。
父デ・ニーロは、ダンカンのパートナーとなって暮らし始めた。
わずか1年後、ダンカンは、暴漢に襲われるニューヨークより、ゲイのメッカ、
サンフランシスコに移り住むことを決めた。
売れない画家のデ・ニーロは、移住をあきらめ、一人暮らしを始める。息子が近くにいるのが、せめてもの救いだった。
(その後、ダンカンが、別の男性と結婚するまでの約6年間、デニーロは、名ばかりのパートナーだった)
ゲイの先駆者、ダンカンのパートナーということもあり、小説家のヘンリー・ミラーや、劇作家のテネシー・ウイリアムスなど文化人が、デ・ニーロの周りにいた。
父デ・ニーロは、人気者だった。
しかし、デ・ニーロの描く抽象画には、理解者、ファンがつきにくく、後援してくれる画商もいなかった。
息子デ・ニーロは、寂しさを紛らわすために、父にも母にも会っていた。
あるとき、母が愚痴っぽく、父と別れたわけを息子に話した。
中学生の息子は、黙って聞いていた。
しかし、息子は、母のように父を憎めなかった。
父は、同性を好きになっただけで、別に悪いことをしたわけではない。
母を拒絶した森には、近づかない。そっとしておいてあげるのが、父への思いやりだと思った。
デ・ニーロの描く抽象画には、理解者、ファンがつきにくく、後援してくれる画商もいなかった。
父デ・ニーロは「歴史に残る画家は、死後に評価されることが多い」と息子に語っていたことからもわかる。そして、父の悔しさも想像できた。
父と同じように、息子も演技力をつけるために苦労した。
祖父母の家を早く出るために、高校を中退、演技者としての道を模索。
肌が白いので、”ボビー・ミルク”と呼ばれていた。
”あのミルクは売れない”と、クラスメイトは思っていた。
演技スクールの名門リー・ストラスバーグに通った(マーロン・ブランド、ジェイムス・ディーン、ポール・ニューマン、ダスティン・ホフマン、ジーン・ハックマン、ジャック・ニコルソン、アル・パチーノなど有名演技者を輩出)。
演技というフィクションではなく、実体験をする。あるいは、リアルな主人公の
心理分析や解釈を研究する塾だった。
撮影期間中24時間、演者なりきることを要求された。弊害、錯覚も生まれる。
ポール・ニューマンは、帰宅しても演技を続け、妻のジョアン・ウッドワードを困らせていた。
警察官を演じていたアル・パチーノは(逮捕権もないのに)路上で容疑者を逮捕しようとした。
デ・ニーロは、ストラスバーグからの学びを役立てていた。
「タクシードライバー」の撮影時、狂気の男の感情を、共演者のジョディ・フォスターにぶつけて、アドリブのリアクションを求めた。
フォスターは、その後のキャリアで、デ・ニーロの特訓をフォスターは感謝することになる。
ストラスバーグを評価しなかった名優もいる。アンソニー・ホプキンスは、「殺人者の演技は、追体験できない」と、メリル・ストリープと演技法の矛盾を指摘した話もある(とは言え、デ・ニーロとストリープはお互いが、最良の共演相手と認めている)。
息子が20才になったとき、息子をかまってやれなかった後悔が、父デ・ニーロの頭をよぎった。
息子に会ったときのことを記憶にとどめておきたい。デッサン画を描くように、
日記にした。この息子への”手紙”は、その後10年間続いた。
もちろん、寡黙に日記に書きとどめるだけでなく、「近所のイタリア人の連中とは付き合うな」と親として忠告もした。
息子は忠告を聞かなかった。近所に住んでいた俳優のジョー・ペシは、デ・ニーロの生涯の親友になった。
また、数ブロック離れたところに住んでいた監督マーティン・スコセッシとは切っても切れない仲になっている。
デ・ニーロの親友は、リトル・イタリーだけにとどまらず、カリフォルニアのジョン・べルーシもそうだった。
デ・ニーロは、ロビン・ウイリアムスと前後して、薬物の過剰摂取で落命したべルーシに会った最後の友人とも言われている。
54才の画家デ・ニーロは、33才の俳優のデ・ニーロにはかなわなくなっていた。
息子は、映画「タクシードライバー」で世に認められた。
有名になった息子は、ロバート・デ・ニーロと呼ばれ、父はロバート・デ・ニーロ=サー(目上の称号)で、区別された。
息子の成功をとても喜んだ父は、プライドが少し傷つき、悔しい思いもしていただろうと、デ・ニーロは察していた。
デ・ニーロは、父の画を購入し、自分の経営するレストランの客をもてなした。
父が71才で亡くなった1993年に、デ・ニーロは、父のノートを受け取った。
20才から10年間、父の目で見た息子の成長をつづったものだった。
でも、目を通すのが恐ろしくて、約30年間、引き出しに仕舞ったままにしていた。
同伴者に去られ、独りで過ごした父の苦悩を知ったところで、今さらどんな意味があるのか、自分の中で答えが見出せなかった。
ある日、意を決して読んでみた。パリで絵を描いていた頃のキラキラした文章も
並んでいた。デ・ニーロは、救われた。
そして、ドキュメンタリー映画にすることが、映画人の自分にできることだと思った。
「Remembering the Artist:Roberet De Niro,Sir」を製作し、サンダンス映画祭に出品し、HBOで配信。
しかし、これは、世の中から突き放され、報われない人生を過ごした父への鎮魂にもなっていない。デ・ニーロにはわかっていた。
2024年11月、トランプが次期大統領に決まった時「アメリカは、住むに値しない国になった。これは、主義の問題であり、道徳的責任でもある」とデ・ニーロは、
言った。
デ・ニーロの心には、いまも、父がいる。
ゲイやトランスジェンダーを認めないトランプ次期大統領に対する、父のための遺恨のレジスタンスを(もちろん、このことに触れないで)深耕している。
あえてつけ加えれば、デ・ニーロの2人の妻は、褐色の肌の女性だった。白人優越主義者のトランプを認めない理由がここにもある。
他のハリウッドセレブのように、金持ち喧嘩せずを決め込むこともできるが、出来ないのが、デ・ニーロ。
LGBT弱い人々のために戦うデ・ニーロと、一緒の空気を吸えることを喜びに思う。
(ご高覧ありがとうございます)