妻のバレッサ・パラディより、母親を選んだには理由があった
<ショウファー3>
私は、ショウファー。高級リムジンの雇われドライバーだ。
「顧客ニーズを100%満たす」という会社方針で、きょうは、「どこでもいいから、街中を半日走れ」というリクエストに応える。
いつもとは毛色が違う顧客だ。Kidsというロックバンドの連中らしい。
リムジンは、フォード・リンカンMKTタウンカー。長さ5.27m、幅2.17m、高さ1.71mのストレッチ・リムジン。3,700cc、300馬力。
シャンデリアのような街の夜景を見ながら、仲間同士の小さなパーティ。きっと満足してもらえると思った。
会社から送られた顧客プロファイルによると、発注者は、ジョニー・デップ[1963年6月9日 ケンタッキー生まれ、俳優、出演作:シザーハンズ、ギルバート・グレイプ、パイレーツ・オブ・カリビアン、チャーリーとチョコレート工場など]字数は多いが、会話の足しにもならない。なので、調べた。
ジョニーが15才のときに、両親が離婚。
母親がウエイトレスをしながら4人の子供を育てる。兄弟は、自分たちの分は、自分たちで働いて稼いだ。末っ子のジョニーは、元父親の会社に行って、週ごとの養育費をもらうのが役割だった。
元・父親の失業期間中は、手当もなくなり、家族でモーテルに1ヶ月も泊まったり、アパートの部屋を2部屋向こうのさらに安い部屋に引っ越しながら、”引っ越しが近くてよかった”と、笑いあった。
しかし、ジョニーは、近所の悪い友達と遊ぶようになり、13才でタバコを始めた。そのうち、ドラグに手を出し、自傷行為をするようになった。
”自傷行為は、自分への怒りをしずめるため”と母親が聞き、”熱中できる楽器のようなものを”与えてやるのが一番となった。カスタネットくらいしか買えない母親は、職場に借金をして、ギターをジョニーに与えた。
兄弟たちも”どうしてジョニーに、ギターを?”とは言わなかった。
みんな、ぐれた末っ子を救いたかった。
その後、2週間、高校に行かず、ギターの練習に明け暮れた。”これじゃあ、また、不良になる”と、母親や兄弟の勧めで、登校。しかし、校長の反応は意外だった「ロックシンガーが夢なら、夢を追求すればいい。勉強の場は教室だけではない」。
母親、兄弟、そして校長、ジョニーは、まわりに救われた。
ロック仲間とは、練習の合間、好きな映画館に通った。近所の名画座なら、大人にまぎれて入れた。でも、バスター・キートンとかジェイムス・ディーンとか、映画は卒倒するほど古かった(大人になったジョニーは、その頃の思い出をたぐるように、バスター・キートン映画を収集している)。
ジョニーの女友達の元カレに、ニコラス・ケージがいて、映画が好きならと、オーディションを受けることを勧められた。電話で万年筆を売る、週給100ドルのアルバイトをしながら、チャンスを待った。
そして、有名になった。
有名になると、アメリカ中を飛び回る。「飛行機が離着陸し始めると、急に宗教的になる」とジョニー。
ジョニーは正直だ。
アメリカ中から、ジョニー少年のような恵まれないときを過ごしている子供たちから「苦しい、死にたい」と、相談メールがくる。「よく読んでくれ。僕は、単なる俳優だ。キミに答えられない。お医者さんによく聞いてもらいなさい」と彼は書いた。
ジョニーは、とても正直だ。
一方、正直すぎるジョニーは、女性との関係をすべてオープンにし、スキャンダルが欲しいマスコミのえじきになった。
腕に彼女の名前をタトゥーするほど愛したウィノナ・ライダーとは、薬物依存だった過去を理由に、彼女の両親の猛反対にあった。
「ご両親が、多分正しい」と、彼が引き下がり、3年半で破局。
フランスの歌手兼女優のバネッサ・パラディとの関係は良好で、幸せな結婚生活を過ごした。
ジョニーは、彼女の両親と話すためにフランス語を一生懸命学んだ。
そして「1999年、5月27日に生まれた娘が、僕に人生をくれた」と無上の喜びをジョニーは言葉にした。
しかし、16年目で破局。
原因は、ジョニーをこよなく愛してくれた母親と、バネッサがどうしても、うまくいかなかったことだという。
親権を獲得した、最愛の子供たちが泣こうが、ジョニーは、母親を守った。
”彼はマザコンだ”という人がいるだろう。
寒い冬の夜、レストランから温かいスープを子供たちのために運んできた母親、自分の食事を我慢して、ギターを買い与えてくれた母親を大切に思って何が悪いんだと、ジョニーは思っているに違いない。
リンカンの後ろ座席で少し騒いでいる男を応援したくなった。