嘘をついたアメリアは、自分に罰を与えた
1927年リンドバーグが、大西洋横断飛行に成功。ヨーロッパとアメリカが、新しいビジネスチャンスの到来を祝った。
一方、祝杯をあげられない大西洋飛行レースの負け組がいた。プロジェクトへの
出資者から起死回生策を求められていた。
リンドバーグの飛行とは違うインパクトを与えて、注目を集める。そして、ビジネス参入の機会づくりをする。
このプロジェクトのプロデューサー、ジョージ・パットナムが考えたことは、”女性初の大西洋横断飛行”だった。
ヒーローのリンドバーグが、人気者になれたのは、彼の端正なルックスもあったと、パットナムは読んでいた。
パットナムの美女探しが始まった。
パットナムにとって、女性の飛行機操縦の上手い下手を考慮する必要はなかった。ただ、美しければよかった。男性パイロットが操縦し、彼女は後ろ座席に静かに座っていればいい。成功すれば、”女性初の、大西洋飛行者”として報道される。
飛行士訓練所の卒業生リストを調べた。パットナムの目にかなう女性が一人いた。
アメリア・イアハートは、美人だった。そして、苦労していた。
21才の時、看護師助手として社会人をスタートさせた。患者から猛威をふるったスペイン風邪に感染し、治っても後遺症に悩まされ、クビになった。
失業中の23才、父親に連れられて行った航空ショウへ。飛行機に乗り、地上90mから下を見て、息をのんだ。地上のあらゆるものが、遠く小さく見え、悩みもほんの一瞬消えた。
飛行訓練所のレッスン料が、12時間500ドル(現在価値は16倍の、8,000ドル(120万円)。1時間10万円、彼女にとって大変な負担だった。
トラック・ドライバー、カメラマン、速記者などのアルバイトをして、必死にレッスン料を稼いだ。
25才の時には、女性飛行者として、高度記録(4,300m)を達成した。
アメリア26才で、パイロット・ライセンスを取得。
しかし、女性パイロットに就職先はなかった。
貨物輸送、農薬散布、人命救助、あるいは飛行ショウの曲乗りとしても、男性が独占していた。金持ちの遊覧飛行でも、女性パイロットには声がかからなかった。
空を飛べないアメリアは、先生や、ソーシャルワーカーをして機会を待つしかなかった。
パットナムから仕事をオファーされた時、5年もののライセンスを握って、アメリアはアドレナリン全開だった。この仕事のためには、なんでもすると思った。
リンドバーグの偉業達成の翌年1928年、パットナムのチームは、北米の北端から(パリではなく、荒天のため)イギリス南端に不時着した。大西洋横断20時間40分の記録だった。
パットナムの仕組んだ通り、”女性初の大西洋横断飛行”としてアメリアは、取材を受けた。
しかし、アメリアは「横断飛行を成功させたのは、男性パイロットで、私は、袋に入った芋のようにじっとしていただけです」とインタビューの第一声。
パットナムは渋い顔をした。彼女にレクチャーしなければと思った。
しかし、記者たちは、パットナムが広報していたように、パイロットとして少しは操縦したと、都合よく解釈。
読者受けする”女性初の大西洋横断飛行成功”として報道した。
その日から、”レディ・リンディ(リンドバーグの略)”とか”大空の女王”と呼ばれ、ホワイトハウスの大統領歓迎晩餐会に招待された。
アメリアの商品価値があるうちにと、パットナムは、ドキュメント「20時間40分」を書かせ、書籍販売を兼ねた講演依頼を全米各地でプロデュースした。
アメリアが飛行機を操縦し講演地に向かい、ローカル紙をにぎわせた。アメリアは、嘘をつき続けるしかなかった。それだけでもとても疲れた。しかし、自分を拾ってくれたパットナムに文句は言えなかった。
情けないことに、パットナムの筋書き通り演じたアメリア。笑顔の聴衆を騙していた。良心が痛んだ。
自分のパイロットとしての能力を証明するために、そして自分を納得させるために、誰も成し遂げてないことをするしかないと思った。
リンドバーグの大西洋は、5,800Km。これに比べて、北アメリカ大陸の幅は、8,000Km。アメリアは、北アメリカを1往復16,000Km女性単独飛行の記録を打ち立てた(大西洋初飛行のインパクトにかなわなかった)。
アメリアの良心の痛みは少しやわらいだ。
この飛行実績で、ローカル路線の航空会社2社から副社長を委嘱された。そして、女性パイロット組織の初代会長に就任した。
また、女性のワーキングウエアにさまざまな提案をしていたことから、ファッション誌”コスモポリタン”の副編集長にも就任した。
女性ファッション誌”マッコール”もモデル起用を考えていたが、タバコのコマーシャルに出演したため起用を断念。アメリアは、タバコ広告の出演料をすべて、海軍将校でパイロットのリチャード・バードの南極大陸探検の費用に寄付した。
華やかで幸せなことが、アメリアに集まってきた。タイム誌の「今年の100人」に選ばれ、名実ともにセレブになった。
32才になって、アメリアは、結婚を考えるようになった。
彼女には、化学エンジニアの婚約者がいた。一方、パットナムは既婚で2人の子供がいた。
パットナムが2人の子供を連れて離婚し、アメリアに6度のプロポーズをした。
34才のアメリアは、婚約を破談にし、パットナムを選んだ。
マスコミは、仕事優先の彼女らしく”便利な結婚”と報道した。
アメリアは、パットナムなくして今の自分はないことを一番知っていた。
また、結婚しなければ、パットナムに過去を暴露される恐れも不安もあった。
結婚式当日、アメリアからパットナムを驚かせる「結婚誓約書」が渡された。
「私は結婚という古風な鳥籠で、我慢して生きることはできません。自分だけの
自由がある場所を持ちたいと思います。そして、二人はお互いの行動を干渉せず、自由に生きましょう」
「私の収入は私のもの。財布は別にしましょう(パットナムの収入は、彼女のマネージャー料しかなかった)」
そしてとどめは、夫婦別姓。
ニューヨークタイムズ紙の記者が「ミセス・パットナム」とアメリアを呼んだ。
彼女は「ミセス・イヤハート」と訂正させた。そのうち、パットナム本人が「ミスター・イアハート」と呼ばれるようになった。
ひたすら大空が好きだっただけの女性に、嘘をつかせた男への復讐状だった。
自己嫌悪を繰り返していたアメリアは、もういない。
1932年、結婚の一年後、自由なアメリアは、念願の”女性初の大西洋横断単独
飛行”を成し遂げた。
天候不順と機械の故障で、(1回目の男性パイロットによる飛行より手前の)アイルランドに不時着。目撃したアイルランド人が「遠くから来たのかい?」「アメリカからよ」とアメリアが陽気に答えた。
リンドバーグの快挙から5年、彼女の嘘が、ようやく本当になった。
1937年、39才のアメリアは、”女性初の世界一周単独飛行”(最長距離の赤道上47,000Kmを、有視界飛行する45日間のルート)を目指すことにした。
リンドバーグですら考えもしなかった、命がけの飛行計画だった。しかも、アメリアの、この挑戦を陳腐なものにしてしまう、日進月歩の航空機技術の革新が予測されていた。
なぜ、こんな無駄で無謀なことを考えついたのか。そして、夫も誰も止めなかった。とても疑問が残る。
世界に嘘をついてデビューした罪を、神をも恐れない冒険に挑んで、罪のつぐないを求めていたのか。
80%の航路を飛行し、世界一周を目前にした南洋で、アメリアは消息を絶った。
40才のアメリアは、不可能などないと思い続けて頑張った。この高揚感が、可能の限界を見誤らせてしまった。
当時の捜索隊は、落下機体を発見できなかった。パットナムは、捜索にすら加わらなかった。
そればかりか、パットナムは「不時着した南海の孤島で、日本軍の捕虜になって殺された」と根も葉もない仮説をでっちあげ、捜索を切り上げさせようともした。
失踪から2年後、アメリアの死亡が法的に判定されて、半年も経たないうちにパットナムは新しい女性と結婚した。
2024年になって、4,877mに沈んでいたアメリアの機体と想定される機影が、
深海捜索企業によって発見された。引き上げるための準備に入ったとの報道がある。
87年経った今でも、アメリアを忘れない人たちがいることの素晴らしさを感じる。
※長文にお付合いいただきありがとうございました。