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長崎で被曝した元特攻隊員の祖父の話

ふと思い出した自分と関係のある戦争の話。私の祖父の話だ。

私の母方の祖父は、20年ほど前に病気で亡くなっている。母の故郷は、私の故郷から飛行機の距離で離れており、私も子供の頃はたびたび訪れていたが、大人になってからはすっかり行かなくなってしまった。行ってもよかったのだが、機会がなくて行かなかった。

祖父が病気でなくなったときも、私は当時特殊な仕事をしていた関係で、お葬式にいけなかった。

葬儀から帰ってきた母が私にこんなことを言った。

「父親が、亡くなる前に、母親に今更告白したことがあるんだけど、父親は長崎の原爆の被爆者だったみたい。」

「ええ!」

祖父の出身は、長崎ではない。母の故郷である山陰地方が祖父の出身だ。そして祖父の家系も長崎、ましてや九州には関係がない。本家は大阪にある、パーフェクト関西家系なのだ。

母が言うには、祖父は、長崎の病院で入院していたときに、原爆が落とされ、被曝。幸運にも生き残ったが、しかし、祖父が病気で死ぬ直前まで、誰に自分が被曝していることはずっと言わなかった。というか、言えなかった。なぜなら、当時被曝をしていた人は差別されていたからだ。
戦後、「原爆症はうつる」という言われのない偏見や差別が、悲しいかな人々の間でひろまり、被爆者は、被害者なのにも関わらず就職や結婚に影響を及ぼしたからだ。

では、そもそもなぜ祖父はあの時、長崎にいたのか?

祖父は、もともと海軍飛行予科練習生だった。通称、予科練と呼ばれる、いわゆる海軍の少年航空兵だ。祖父は、某山陰地方から、少年航空兵に志願し、海軍の少年兵になったのだ。

そして、祖父は特攻隊の隊員に選ばれた。

祖父とこの話をしたことはないが、祖父は、祖母や母に自分が特攻隊の隊員だったことをよく話していた。しかし母は、おそらくあんまりちゃんと聞いておらず、私に「祖父は、回天の特攻隊員だったみたい」と教えてくれた。

回天とは、特攻の潜水艦、いわゆる人間魚雷のことだ。

母曰く、祖父は特攻の任務を受けて乗り込んだものの、アメリカ軍ん攻撃を受けて機体が損傷。機体から、脱出することができて、機体の残骸であった木材につかまって海に浮かんでいたところを、日本の船に助けられたのだと言う。

この話を聞いたときは子供だった私だが、大人になって、ニュース番組のディレクターとなり、戦争関連の取材を経験していく中で、この話の矛盾に気づく。回天でよく言われているのが、中に入ってしまったら、自分から外に脱出することはできない。機体に穴があくほどの攻撃を受けているなら、中にいる祖父が生還できるのか?爆弾を抱えた回天がそんな攻撃をうけたらそもそも爆発しないのか?そもそも潜水艦の回天が木材で出来ているのか??

そこで私はさらに考えた。当時、特攻兵器は、航空機、潜水艦のほかにも色々あり、その中にボート特攻というのもあった。それは、震洋とよばれる特攻で、エンジンを付けたボートに爆弾を積み、ボートごと敵の船に体当たりをして攻撃するものだ。ボートはベニヤ板で出来たとてもお粗末なものだったという。それなら話はつく。祖父は、敵の船から、機関銃のようなもので攻撃を受け、ベニヤのボートは大破。祖父はその大破したベニヤを掴んで海上に浮かんでいたのではないのか?

祖父が亡くなった後、祖父の家から叔母が、祖父の大事な戦争時代の遺品を見せてくれた。名前が書かれた日本国旗などだ。そこに海軍の所属部隊名が書かれていた。その部隊がいたのは、長崎だった。長崎には、”震洋”の部隊が訓練をしていた基地があった。

そこは、現在の長崎県川棚町あたる場所にあった。

実際にいってみた


ここからは私の推測だが、祖父は”震洋”に乗り込み、特攻攻撃を仕掛けた。しかし敵の戦艦から、攻撃を受け、ボートは大破。祖父は、奇跡的にも死ぬことはなく、大破したボートの断片であるベニヤ板に捕まり、海面に浮いていた。(その少年を狙わなかったアメリカの戦艦のおかげで今の私がいる)
そこへ、日本の船が通りかかり、祖父は助けられ、長崎の病院に運ばれた。
そしてそこに原爆が落とされた。
その後、祖父がどう動いたのかは誰も知らないが、戦後、祖父は長崎を離れ、故郷の山陰地方の某町に戻った。そこで役所の公務員の仕事につき、祖母と出会い結婚をして、4人の子供に恵まれた。子供たちは誰も大きな病気を煩うことなく、大人になり、そのうちの1人が上京をして、今の私が存在する。

祖父は、なぜ死ぬ間際になって、自分が被爆者なことを打ち明けたのか?
それは、祖父は、祖母や母ら子供達に申し訳ないと思っていたからだ。
自分が被爆者なせいで、家族が差別をされるかもしれない、自分はせっかく役所の役人として仕事をして家族を養えているのに、首になるかもしれない。祖父はおそらく、その偏見による差別の現場を自分の目で見てしまったんだと思う。祖父は死ぬ間際になってようやく差別される不安から離れることができたのだ。

とはいえ、祖父は、被爆者であることを隠したのかったので、検査をうけていない。なので、実際のところ祖父が、本当に被爆者なのかはわからない。だが、祖父が、長崎で特攻隊員だったのは本当だ。今も母の実家に残る血判の名前入りの日本国旗がそれを物語っている。

ドキュメンタリーディレクターの私なら、長崎にいってリサーチをして、一つ作品を作り上げることもできるけど、まぁ、祖父がそれだけ隠したかったことをあえて動画で作らなくていいかな、と思っている。でもこの話は、残したいなと思ったので、noteに書くことをした。

祖父の話のように長いこと語られていなかった「戦争の話」がきっと色々あるんだろうな、と私は思う。

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震洋について描かれたニュースのドキュメンタリーがこちら
(私が作ったものではなく、とてもわかりやすかったので)

祖父が特攻隊の隊員だったということもあり、私自身が特攻隊に関心をもつ作った少年の特攻隊員の心に迫ったドキュメンタリーがこちら。予想外にとんでもなく多くのな人が見てくださっています。ちゃんと作ったので、見ていただけると嬉しいです・




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