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最終回を終えて〜私が思う「おかえりモネ」

個人的な吐き出し浄化目的なのでかなり冗長です。最後まで観終えてから言おうと思っていた事をツラツラ書いてます。さして内容ないです。あしからず。

総括

「おかえり、モネ」と優しくタイトルを回収し、最後の主題歌とともに最大に被害を受けた及川家全員の思いを乗せた新たな船(ほぼ自腹)で出港した甲板で「行くぞーーーー!」と叫ぶ華やかな門出のシーンを飾った「及川亮」がやはり今作の朝ドラのヒロインだったなと思います。

あんな晴れ晴れとした華やかなシーンが最終回の記憶として焼きついているのに、亮は結局ひとりで立ち上がり、心の中には「大切な人を突然なくす怖さ」を払拭できずに残している。さらに主人公への恋が成就しなかった当て馬役として同情の余地を残しました。

亮=気仙沼の象徴=被災者の代表です。

同情の余地が残っているからこそ、視聴者は気仙沼や被災地への思いをこのドラマで消費して終わらずに「何か力になりたい」と思い、現実の行動や被災地への還元につながっていくのかもしれません。

亮に限らず、未知もモネも傷は軽くなったものの持ったまま前を向いて歩く姿を見せて終わっています。耕治が「まだ救われたくない」と自分を縛ったのも、心の復興は人が生きている限り、どこかで続いていくということでしょうか(ロケ事情は知りません)。東日本大震災に限らず「生きてて何もない人なんていない」。みんなそれぞれ何かを抱えて生きている。

心の傷は治るもんじゃない。前を向いて歩く力があればそれでいい。そのためにひとりで抱えず少し荷物を分け合おう。これがおかえりモネが説いた「生き方」なのかもなぁ。と思いました。

まとめとして、主人公モネのラスト時点の事実だけ羅列します。

外の人でよかった…距離も時間も関係ない…と東京の医者の彼氏を遠距離において、昔からお互い特別だといわれるモテモテ漁師をおかえりと迎える気仙沼からもう離れない。ここで山の神!ひめ!と呼ばれ皆を受け入れるサヤカのような存在に自分がなりたいと24才にして宣言し、その市から無料でスペースが提供され、震災の被害のなかった家賃のかからない実家で暮らす。養殖実務のお手伝いはムリなのでしない。東京の会社から3年利益なしで明確な事業計画もなく放任され…無償協力で得た気仙沼発の船からのデータで東京自社の事業を推進している…それをどう還元するかはまだ見えない。

…被災地気仙沼を舞台に、震災を扱ったと銘打ったドラマとして、この人物像に据えた事は、どうなのかと思いました。
ただ最後までわからないけどわかりたいと思えた事は大事な経験だったと思います。そして私の常識は通用しないと痛感し多くを学んだドラマでした。

多分、再放送・再再放送で見えてくるものが多いドラマなんでしょうね。

結末について〜大事にしてきたことは、大事なんです

120話。2年半の時を経て菅波とモネが結ばれていることを確認して終わりました。菅波とモネ2人の不思議な愛の形でしたが、それを2人は大切にしていてこれからもそれを大切にしていく歩みでした。これは素直に画面から受けたこの物語のラストです。菅波とモネは結婚へ向けて進むと思いますし、亮と未知も同じように結ばれると受け取りました。

それを前提にーー

今までの自分の考察noteをざっと見返して特に大きく訂正すべきところはないなぁと思いました。『亮とモネの愛の物語』とあちこちに記載していますが、それも否定もできない内容だったと思っています。

ただ追記すべきは「ソウルメイトの愛」はひとつではなかったということ。
愛の定義は「結ばれること」「結婚」だけでないということ。

モネは、3人のソウルメイトとの絆を確認して終えました。

1人目は、幼少期から特別仲の良かった姉妹「未知

2人目は、特別だ通じ合ってると言われるお腹の中からの絆「

3人目は、心の傷にずっと寄り添い安心を与えてくれる「菅波

あさイチで清原さんが「モネは恋愛軸で生きていない」とハッキリいった事がようやく腑に落ちた気がしました。

肌と肌の触れ合いではなく、もっと精神的な世界を優先しているんでしょうね。モネはアセクシャル的な感性に近そうな気がします。だからこそ、亮のそばでその存在を見守るだけでモネは満たされ菅波がいざというときに支えてくれることでモネはこれからも安心して生きることができます

モネ「でも、先生これは…自分が救われたから?」菅波「いや」
モネ「大事な人たちが幸せになる。こんなに嬉しいことはない」(118)

ーーーー

中でも、亮とモネの間の想いは深すぎた。それゆえ、ぐるりとモネを循環させるエネルギーになったのではないでしょうか。その循環を支えていたのは紛れもなく菅波だった。亮は大切で、菅波は必要なんです

数々のセリフやシーンを重ねて考えると、震災により植え付けられた亮とモネの「大切なものを失う怖さは、この物語の中では払拭されていません。2人とも。

「百音さんは時々大切な人と離れるのをとても怖がります。でも僕のことは離れても大丈夫だと思っているようです。割と最初の頃から」(117)
「そんなに大事だと怖くなりませんか?そんなに大事な人もいつか無くすかもしれない。もしもその人が目の前から消えたら…」(116)

モネは、亮の存在を身近に感じ続けることにとどめて、菅波と共にいることで自身の心の安定を保つバランスを選択したと捉えられます。

亮もまた「大切なものを失う怖さ」を克服できていない。だからモネの選択をそれ以上追わずに受け入れたのかなと。
未知には俺が必要だ俺が守らなければと思えた事が亮の覚悟には十分だったのだと思います。必ず俺を待っててくれて支えてくれる存在が必要だったといえます。
亮もまたモネが大切で、未知が必要なんです。

菅波と未知は、亮とモネの絆がいかに深いか気づいているからこそ、逆に亮とモネが作り上げたこの幸せの城を壊さないだろうという安心があるようにも思えます。四者でバランスが取れていそうです。

次のインタビューで脚本家がわざわざ『菅波は崇高な「利他の精神」がある』と語っているのは、そういった関係を意図するのかなと思っています。

”それは彼が、根本的に『利他』の精神を持っている人だからだと思います。ここまで他者のことを思える人は現実にはなかなかいない。人間としての理想を体現しているのかもしれません”
書面インタビューに応じた安達氏2021.10.28)

菅波は仁に過ぎても弱くならないということですね。

ちなみに「菅波&モネ」「亮&未知」は共依存及び依存の関係に近いかと。「心の復興」を題材にした朝ドラで共依存に落ち着かせるのか…とは思いました。でも依存だけの関係に閉ざされていない。そして、前を向いて歩いてる。それが大事なんだと思います。

「だから百音さんがこれからの人生を共に生きるのは、僕のような人間が最適なんじゃないかと思います」(117)
「私は…先生じゃないと駄目だから」(118)


ーーまとめ:モネにとってのソウルメイト

亮は「そばにいたい。離れたくない大切な存在
菅波は「離れても大丈夫だけど必要な存在
未知は「受け入れたい頼って欲しいモネの存在意義を確認できる存在

ラストの2年半の間、モネの最もそばにいたのも実際「亮」でした。洋上ジェネレーターでも繋がって「守れるなら、守りたいと思います(82話)」も実現できています。

平成の価値観では、亮とくっつかなきゃおかしい感情なんですが、令和D&Iの時代です。(「昭和の倫理観」はこの恋愛観の示唆だったんですかね)

上記の関係性がお互いなりたち、そこにお互いがお互いを大切に思い必要と思う気持ちがあれば、それ以上の愛や恋など定義は必要ないのかもしれません。

結果、モネはそれらを世間の常識にとらわれず大切なものは大切なんだ、必要なものは必要なんだと向き合って大事にしたことが、この結末につながったのかなと思っています。

モネは恋愛軸で生きていない」清原さんのこの言葉が全てかと思います。
19歳の彼女がこれを理解し演じていたのであればすごいなと尊敬します。

ーー 

(実際は「もっと単純に観ようよ。朝ドラじゃん。恋愛なんてその時々じゃん。雲みたいなもんだって明日美も言ってたじゃん。今はお互い誰より愛し合ってるんだよ」的な感じの可能性も高いかと。ただ"筋"を考えると上記におさまりました。正直、とっ散らかったまま終えたドラマなので、解釈も何でもアリだと思っています)

手塚ブッダとおかえりモネ

最後まで観ても、やはりおかえりモネは手塚ブッダをコンセプトとした心の復興物語だったと思ってます。


シッダルタが悟りを開いてブッダを名乗るまでが東京編の途中。ブッダが教えを説きつつもまだ自分のことで悩むラストまでが、東京編後半と気仙沼編。

ただ「手塚ブッダ」と「おかえりモネ」では決定的な違いがありました。

それは「抽象的」にかかれているか「具体的」にかかれてるか。
印象派 or 写実派。
言わずもがな、モネは印象派。(おかえりモネは「抽象画」に近い印象ですが)

ブッダは絵も内容も容赦がありません。
カースト全盛の時代の人間の心の傷や欲や悩みや裏切り、愛の尊さも醜さも具体的に描き、さまざまな経験をしてきたブッダが心の医者としてその原因のさらに奥深い根っこをゴリゴリ突き止め、手当てや言葉で思考の切り替えを促していきます。
解決されず放置される人もいるし、解決に失敗し命を落とすものもいる。
その様子から読者は学ぶ。ブッダも学ぶ。

だから、救いのセリフに意味が宿る。

ブッダの救いの手法も無茶苦茶で言葉が強いですが、物語としては許容できます。だってその原因のさらに奥深い根っこを具体的に突き止めているから。(そもそも必要なセリフとして配置されてる。というかもう主人公は釈迦だからそれだけでまぁねぇと受け入れられる)

東日本大震災10周年の朝ドラで、被災地気仙沼大島を舞台にしたことは、配慮すべき事柄も私の想像を遥かに超えるかと思います。しかも次々追加されていったんでしょう。

ただ、私が「おかえりモネ」をみて感じたことは、

「手塚ブッダ(心の復興)」と「印象派」の食べ合わせは悪かったかも、ということ。

抽象的な表現では「その原因のさらに奥深い根っこ」にたどり着けないし、視聴者と共有できないので肝心の真の心の治療を描けない。

これ、「手塚ブッダ」がコンセプトじゃなくても、結局言いたいことは同じです。
「〈センシティブなエピソードに対して〉〈抽象的な会話&映像表現をし〉〈強いセリフで解決すること〉」は決して成功ではなかったと思います。

心に切り込む覚悟がないまま抽象的な表現に逃げて、震災という壮大なテーマでこのドラマを作った事が、評価の分かれ道だったのではないでしょうか。

総括でも述べたように、
心の傷は治るもんじゃない。前を向いて歩く力があればそれでいい。そのために心を少し軽くするまでを描写しているのであれば、東日本大震災を題材にせずに創作のものにした方が無闇に傷を抉らず伝わったのかなとも思っています。

3つの不誠実さ〜「世の中この程度ですよ。きれいごとばっかじゃ番組は作れませんからね」

ドラマを視聴しながらストーリーは仕方がないと基本受け入れていますが、公共放送の朝ドラ枠で震災を扱う制作側のスタンスとして、どうしても引っかかっていた点です。

1.告知(と SDGs絡み)
「震災10周年被災地気仙沼が舞台です」から始まり、気象予報士が公式SNSで次々と「気象予報士の朝ドラ始まります」との告知をしていたので、展開に戸惑いました。

最初から「心の復興」の物語なんです。哲学なんです。ファンタジーなんです。東北と東京の物語です(最終週脚本家回答記事)。と告知して欲しかったなと。抽象的な表現で物語が進むので、告知ではっきりジャンルを示すことで視聴スタイルが定まり、信頼関係を築けて、理解も深まったように思います。

心に不安のある方は観ることを避けることもできたし、少なくとも、観る覚悟と準備ができたのではないでしょうか。

せめて、哲学ドラマらしい内容に繋がるコピーが欲しかったなぁ。

「生きろ」(もののけ姫)
「生きねば」(風立ちぬ)
「人はなぜ生きるのか」(手塚ブッダ)

(放送期間中、真鍋淑郎氏のノーベル物理学賞受賞のニュースがはいり、気象業界の奥深さが正しい方向で取り上げられてよかったです。気象業界のみなさま、おめでとうございます)

2.創作された天災

「おかえりモネ」では東日本大震災の津波(+コロナ上陸日)以外ほぼ創作の天災でした。
2019年台風12号も台風19号がモデルかと思いますが東北に被害はなく、代わりに竜巻が被害をもたらしました。ウォータースパウトという水上竜巻の写真が確認できたと、気象予報士の森田さんが解説されていました。

この竜巻の前に、東京編では竜巻発生機が何度も登場し耕治がスイッチを入れ一瞬動かしています。
さらにこの竜巻は「心の洗濯」「左回りの運命の回転」と物語の表現としても使われているように見えます。

亮が遭難しそうになった嵐も似た天気図は10月や3月だと気象予報士の方がつぶやいていました。春秋です。冬型の気圧配置ではかなりの異常気象となり、過去10年の気仙沼1月3日付近の天気データをざっとみても同様の嵐は見当たりませんでした。しかも被災地に架空の水害を起こしてる最中、「嵐…お金、使ってくれっから」と市役所古山さんが言い、横をみると嬉しそうにラジオで告知する高橋さんがいる配慮のなさに辟易しました。社会の二面性を入れたかったにせよ、このシーンでは絶対に必要なかった。「震災は建築屋がもうかってお金がまわる」と歓迎してるように読めるんですよ。

東日本大震災をメインに扱ったドラマで、しかも、気象予報士が主人公のドラマで、その常識を超えて物語に都合よく天災を配置したことが、理解できないと同時になんとも余計な気遣いに感じました。(リードタイムを稼ぐことはできても)自然に対して人は無力です。それは、東日本大震災だけではないはずです。
中途半端な意識が、不用意な傷の抉り方と安直な心の治療に現れていた気がします。

3.考察用仕込み・小ネタ

天災と心の問題をメインに扱うドラマに遊びや仕込みは不要かと。
もっと誠実に物語を紡いで届けて欲しかった。
運命の仕込みはもっと誠実な表現が良かったなと。

結果ラストの読みが当たっていたとしたら、最後に言いたかった言葉です。
わからないものをわかろうと考察する事ができ知識も広がりましたがこのテーマにおける運命が抱くものの重大さを考えると背徳感もありました。負け犬の遠吠えになりますが記しておきます。

ーー

以上を受けても、この内容なら東日本大震災を扱わなくても成立したのでは?と疑問が出てきてしまいます。逆に、東日本大震災を扱うなら視聴者の心の傷にもっと敏感にもっと専門性を持って寄り添って欲しかったなと思います。

マルチエンディング・パラレルストーリーの可能性〜あなたが思う未来へ

・24週の週タイトルは「あなたが思う未来へ」
・タイトルの回収は亮の優しい「おかえりモネ」
・亮とモネの優しく繋がれた手のアップ
・取り戻したモネの破顔の笑顔はこのシーンのみ
・主題歌が挿入された後→砂浜に散らばったおもちゃと砂の亀が撤収され、登場する菅波
・「違う時空(パラレルワールド)」というラストにふさわしくないワード

マルチエンディングを想起せずにいられない終わり方です。
根底に敷かれていた運命が亮と菅波で24週に入れ替わる瞬間が見つかるかもしれません。その前後の会話に仕込みがまたあるのかもしれません。
でも入れ替わったことも運命なんでしょう。
IFがあったとしても、もう必要ない気がします。

そこから読み取れることは、”運命なんて簡単にひっくり返る。今が大事だ”ということぐらいです…

震災を描く上でこのメッセージをこの手法で伝える事は新次や亮ように「震災を通して運命が変わった人」を逆に過去に縛り付ける可能性を感じます。
未来に向けては「今が大事」ですが、IFを考えることは「あの日がなければ、違う今があったかも」という思考回路に戻すことにもなります。

ーー120話。2年半の時を経て菅波とモネが改めて結ばれました。結婚相手も菅波でしょう。菅波モネ・亮未知の関係は少し奇妙に感じる状況で続いていくと思います。でもそれが彼らの自然なんだと思います。

といいつつ、最後にひとつ。

菅波とモネの浜辺ラストは「火の鳥太陽編」ラスト5pのオマージュかコンセプト回収のようにみえました。(→コンセプトはこのnoteの目次5.

このシーンを浜辺で菅波と再会するシーンと照らし合わせながら読み返してみました。映像とシンクロしているように感じます。
ただ、なんとも後味の悪い引っかかり方をするセリフが飛ばされています。私のtweetに考えを投稿してくださったいくつかのエンドをあながち否定できない内容でもあります。

もし機会があれば「火の鳥太陽編」ラスト5pだけ、どこかで立ち読みしてみてください。

何はともあれ、私にとっては、派生した知識が深まり、思考力も鍛えられ、常識にとらわれるリスクを学んだ実りある2021年前期朝ドラでした。

登米や気仙沼と大島にこれからもより多くの幸あれ!


おわり!


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