デザインを語ることは、飯テロみたいなものだ
先日こんな記事を書いたら、思いのほか閲覧数が伸びてしまった。
閲覧してもらえるのはありがたいのだが、自分の中にモヤモヤがあることに気づいた。それはデザイナーがデザインを語っていいのか問題。
私は普段からデザインについてブツクサ言っているが、これはあくまでインターネットでコソコソとやっている、恥ずべき行為だと思っている。
デザインはデザインではない?
解説がないと理解されない成果物は機能していない。例えばビジュアル・コミュニケーションデザインに、別途解説が必要なんてチャンチャラおかしい。
製品・機能のデザインであれば、デザインの存在自体を気付かれない方が良い。良い道具はその存在をユーザーに意識させない。手に馴染まなかったり、操作に迷ったり、何かが不足したとき、ユーザーは製品のデザインに意識を取られてしまう。
デザイナーや物の作り手にとって、デザインはデザインだが、ユーザー・消費者にとって、デザインはデザインではない。それは日常生活の一部であり、情報の媒体であり、一日の最後に思い出されもしない存在だ。
デザインが大きく報じられる際、いつも悪いニュースばかりなのは、強く意識されていない状態=調和しているということ。調和しなくなった時に意識されるからだと考える。
その不和が大きければ大きいほど意識はされる。例えば広告は人に意識して欲しい物だけれど、不快感を与えたり不安を煽ったりしてまで、意識に登らせることが良いデザインだとは思えない(商売だから一定仕方がない場面はあるが)
デザインを知って豊かになるのか?
デザイナー同士でデザインについて語ることは別として、デザイナーじゃない人にデザインを語る行為はテロである。デザインに気付かない方が快適に暮らせるに決まっている。
本を読めば文字組みが気になり内容が入ってこない。電車に乗れば中吊り広告に見惚れて乗り過ごす。スマホを開けばUIが気になって操作がもたつく。街を歩けば看板や店の外観に気を取られて車に轢かれそうになる。デザインを気にして、生活者として豊かになるだろうか?なる訳がない。
それでもデザインは奥深く、いつもと違った視点で物事を見れて面白い。ある意味それは豊かさとも言える。しかし生活に支障を来たす可能性もある。
飯テロみたいなものだ。どちらの豊かさを取るか…
野暮
野暮という概念がある。空気が読めない、融通が利かない、言動や趣味などが洗練されていない、垢ぬけていないなどの意味で用いられる。
反対に粋という概念がある。人情の機微ついてよく理解していたり、気質・態度・身なりなどがさっぱりと垢抜けている状態を指す。
デザイナーは確実に「粋」が求められるだろう。にも関わらず、デザインについてベラベラと不躾に話をするなんて野暮なこと極み。デザイナーの風上にも置けない。クソ野郎だ。
仮面に「仮面」と書く
ここまで書いてきた様に、このnoteをはじめ、TwitterやYoutubeでデザインについて話しているのは、あまり誇れた趣味ではないと思っている。
だからアイコンはうんこだし、仮面には「仮面」って書いちゃう。デザイナー以外が見ている媒体で、デザインに「デザイン」とラベリングするなんて、本来おかしいのだ。
そういう「おふざけ」だと思って、見てもらえるとありがたい。
俗な人間なので、洗練されている物じゃ物足りない。あ〜臭い羊肉食いてぇ。