デザインを語るということ - 脱・飯テロと人生の宿題
何のためにコンテンツを作るの?
パンフレットやUIデザインなど、デザイナーとして、ずっと「枠」を作ってきた。テーマや内容は「支給」されるものであり、送られて来るか聞き出す物であった。
2022年からご縁があって、コンテンツ自体をたまに作る機会がある。しかし、ずっと失敗を重ねてきた。まったく評価されていない訳では無いのだけど、自分で何がやりたいのか分からない。
私の趣味として、「よく分からない動画」が好きなので、最初の方は、よく分からない動画を、自分もよく分からないまま出していたが、そうすると自分で作っていて飽きる。
次に、最近、自分が興味があり、部分的に理解した内容を出す様になった。これは原稿のために本を読む漁る過程は楽しい。しかし、なんでわざわざ、これを動画にしなければならないのか?とどこかで思っている。私の作る動画を見るより、本を読んだ方が楽しい。
とうとう、やる気がなくなって、辞めようかなと思っていた矢先、こんな記事を書いた。
自分で見返して、これじゃん!と思った。
キャリアのことを考えれば、実務で役に立つ内容だけをインプットすれば良い。しかし、私は趣味として役に立たない範囲も含めて勉強がしたい。なぜなら楽しいから。しかし、「これ、何の意味無いよな」という虚無感を感じる。自分という個人の寿命の短さ、影響範囲の狭さを、勉強すればするほど思い知る。そうして、仕事で役に立つ分野だけをやりはじめてしまう。人生の充実感は下がる。
自分の役に立たなくても、他人の役に立つ内容になれば良いのではないか?この「役に立つ」とは、暇つぶしでも何でも良い。
あなたの人生に、良質な暇つぶしを。
デザインという分野なら、それは可能である。
飯テロを脱する
2022年から、ずっと悩んできたことがあった。それは、デザインを知ることで、人々は豊かになるどころか、生活しにくくなるおそれがあるということ。
しかし、この問題は「道具」でのみ発生する。自分が携わってきた分野はパンフレットやUIなどの「枠」であるので、知れば知るほど、生活しにくくなる。
一方、道具では無い物であれば、ユーザーは初めからその物に意識を取られている。だから、そこに情報を付け足しても、生活に影響はない。ハイデガーの言葉を借りれば、「道具」に対して「事物」のデザインである。
そうして、2023年に作った動画が以下。
アニメを、友人の親兄弟まで見ていると聞いて、自分も見てみた。見てみると、学生時代にやった色彩の基礎知識を思い出したので、解説動画を出した。
非デザイナーの友人に「面白かったー」と言われたのが、シンプルに嬉しかった。知ったことで、今後の生活に支障を来たす心配もない。飯テロを脱することができたと言って良いだろう。
道具とか事物とかいう話は、哲学に任せて、私は色彩の世界の浅瀬で、しばらくはチャプチャプと遊んでいようと思う。
人生の宿題
しかし、私は向き合わねばならない。デザインを続ける限り、よりマッチョな領域を理解しなければならない。
それをコンテンツにするかは、まだ分からない。解説できるレベルで理解するには、人生があと何回必要になるか…
発信するとしたら、自分で得た情報を、自分が死んでも誰かの脳みそに保存したい、という動機になると思う。死後の世界に何かを残したいと思うのは、生命の本能だろうか。最近、同年代の人が出産するようになったが、私は遺伝子ではなく情報を保存したい。
赤の他人に、情報の保存先をやってもらうのだとすれば、面白い暇つぶしにする必要がある。だれに?なにを?どうやって?何も考えられていない。
とにかく、まずは「ユーザーのためにデザイナーが学ぶすべて」を、自分が学ばないと始まらない。