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デザイナー歩けばマッチョに当たる-デザイン学徒とデザイナーの責任の関係

軽い気持ちでデザインを始めてしまったなと後悔している。

中学生の頃だった。食い扶持を探し、たまたまデザインの世界に飛び込んだ…というより、迷い込んだ。

職人教育

高校からはデザイン漬けの毎日。普通科の人がやれ高校生活だ、受験だと言っている間、紙に絵の具を綺麗に塗るとか、垂直並行に線を引くとか、我々は一体、何をやらされているんだ?と毎日クラスメイトと悩んだ。課題が多すぎて睡眠時間が確保できず、普通科の授業で寝ていたので高校卒業資格は得たが、その内容はほぼ覚えていない。どうやって定期テストを乗り切っていたのやら…

そんな生活を続けていると洗脳されてくる。街中で文字の組み方がずれている看板を見ると発狂するし、課題をやらないといけない気がして、いつもそわそわしている。そんな職人教育を受けた者たちは、美大か社会へ旅立っていくのだ。


曖昧すぎる分野

職人芸ができないとデザイナーは務まらないが、職人になってしまうとデザイナーは務まらない。

それを私が痛感したのは、2015年のオリンピック・エンブレム盗作疑惑事件だった。結局あの事件は盗作したのか決着が付かなかった。しかし、作者であるデザイナーの過去の著作物の盗作・盗用が指摘され、国民に受け入れられないとして、エンブレムは差し替えられることになった。

そこで思い知った。物を作るということには、社会的責任が伴うのだと。そして、その責任には職人側の理屈は通用しない。

過去、著作物を盗用したかは本件と関係がないにも関わらず、人の気持ち・信用というのは思わぬ所でつながる。だから、お天道様に顔向けできないことはやったらいけないのだ。また、エンブレム自体の盗作については、デザイナーの職人的理屈を並べても完全に「白」と証明できなかった。

結局、ユーザーの心情や行動がすべてなのだ。

正直言って、デザイナーなんてやめようと思った。
人の心を相手にするなんて、職業としてリスクが高すぎる。

しかし、今更引けなかった。しんどい思いして職人教育を受けて、苦労して就職したのだし、直近一番稼げるのはスキルがある職種になる。生きるには食わないといけない。明日の飯のことだけで精一杯だ。

この頃のモチベーションは「デザインをやる」というより「食い扶持を得る」だった。だからデザインのことなんて大っ嫌いだった。


悪いのはデザイナーじゃないのでは…

気づいたら2~3年以上デザイナーをやっていた。この頃になると、物をつくるだけでなく、自分で自分の作った物をプレゼンしたり、他の人が作った物をレビューする機会が増えた。すると、デザインの評価に触れる。

そこでまた事件が起きた。ローソンのパッケージが改悪されたとして炎上した事件だ。これもデザインの理屈が通じなかった事例だ。

あの仕事で悪いのは、職人芸的なデザインの領域ではなく「要件」の方ではないのか。与えられた要件に対し、デザイナーは責任を果たしたはずなのに、すべてデザインのせいにされる。

責任範囲なんていう作り手の理屈は、消費者には関係ない。すべてが繋げられてしまう。

そこで、デザイナーは「デザイナー」の枠の中でじっとしているべきではない。我々は、要件に噛み付くべきなのだ。と思った。そして制作会社から事業会社に転職した。噛み付けるポジションへ移動したのだ。

※分かりやすくこの話題をあげたが、直接的なきっかけになった訳ではない。転職はこの事件より前。


噛み付こうと思ったら…

今まで「デザイナー」という枠で大人しくしていた人が、枠の外へ行き、噛みつきながら上手く仕事をしていくというのは難しかった。

そこで絶対出てくるのは「それって、デザイナーの仕事なの?」「お前は、このプロジェクトの何なの?」だ。

酷い話じゃないか。結局デザイナーのせいにするくせ、デザイナーがしゃしゃり出るのは受け入れられない。まあ、そんな事を言っていても仕方がないので、ちょっとずつ、ちょっとずつ前へ進んだ。具体的には信頼を獲得して利益を共有できる仲間を増やした。(ルフィー方式)

噛みつこうと思ったら、実際には仲間を増やす活動になった。


また、仲間を増やすにあたり「デザインって何なの?」という疑問を言われることが増えた。ルフィだって「私は、海賊王になる男です」と自己紹介しないといけない。

職人芸もデザインだけど、なぜそれだけではデザインは成立しないのか?デザインって何?


デザインに流れ込んでいる分野

ここから、デザイナーではなくデザイン学徒として、デザインと向き合う日々が始まった。しかも、すでに走っている仕事上で説明を求められるため、趣味や道楽とは訳が違う。修行期間に入る間もなく、走りながら強くならないといけない。

ここで課題になるのは、デザインの根本を遡っていくと、近現代社会とは何か?という問いにぶつかってしまう。

  • 産業革命前後、モノづくりはどう変わったのか?

  • 伝統・様式・文化とは何だったのか?

  • 資本主義における生産、創造活動とは?

  • 現代においてアートの役割とは?

  • 人間の知覚や心理をどう見るべきか

  • 創造とはそもそも何だったのか?

  • 物と我々人類の関係とは

いや…多岐に渡りすぎぃ…しかも全部マッチョな分野じゃん!!!無理!!!無理いいいい!!!(タイトル回収)なんで高校時代の俺は普通教科で寝てたんだ!!!!あああ!!!と爆死している今日この頃。

と叫びながらも、ちょっとずつ前に進むしかない。どれから手を付けるかは効率を考える必要はあるけれど…

それほど、現代において物を作るという行為は複雑化している。それを実現するにはデザイナーが色んな分野を繋いだ上で設計を行うべきだろう。すべての分野で専門的な知識を身につけるのは無理だが、何を言いたいのか理解できる程度には学ぶ必要がある。


デザイナーの責任

色を考えろ、形を考えろという仕事もあるが、依頼主に話を聞いているうちに、以下のような課題が出てくる事が増えた。

  • 目の前の物や道具とユーザーはどのように対峙し接点を持つのか?

  • どこまでサービスの提供側がユーザーの活動に介入すべきか

  • サービスの提供側は、ユーザーにとってどんな存在であるべきか

これらは、職人芸としてのデザイン以前に、依頼主の課題解決のための根本的な問いになる。手を動かす前にこれらの事を明確にするか、手を動かしながら問いに立ち返るか、臨機応変に考える必要がある。

ただ、ここまで深くデザイナーが仕事に関われると、炎上した場合にデザイナーのせいにされても文句は言えない。つまり、ここまでやって初めてデザイナーはデザインに責任も持てているということだろう。

道のり長えなあ…


自分なりの「デザイン学」とは

美大へ行って専門的な知識を学んだり、職人芸を身につけたりすることは「デザイン教育」だと思う。では、デザイナーが知らないとデザインの責任を果たせない、他分野について学ぶことを何て呼ぼうか?

どこまでが「デザイン」なのかを考えることは不毛だ。結局ユーザーにはそんなことは関係ない。

ユーザーのためにデザイナーが学ぶすべて
それを、適当に「デザイン学」とあえて呼んでみよう。

該当の分野について、デザインを普段やっている者から見た話なので、専門性には欠けるし正確とは限らない。にわか知識でしかない。

しかし、その「物の見方」は必要になる。
デザイナーはもちろん、物を作ろうとする、すべての人に。


p.s.勉強って属人化してる行動だから嫌いなんだよね。自分が死んだら無駄じゃん。脳みそ転送したい。


追記

急に閲覧が増えてビビっています。読んでくださりありがとうございます。

もし良ければコメントが欲しいです。共感したぜ、ツッコミたいぜなどなど…発信を別にビジネスとしてやっていないので純粋な興味です。

あと、上記で書いたデザイン学について、ネットラジオをいつか初めます。いつかね。とりあえず分からんって言い続けるコンテンツになると思うので、はじめたらここに追記させていただきます。


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