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山上徹也さんがしてくれたこと

1. 山上徹也さんは、呼び捨てにすべき人間ではない。容疑者をつけて呼ぶのはまだしも、彼を見下した言い方をする人間は、彼の起こした事件の詳細を知らないのでなければ、きわめて浅薄な人間だろう。
 とはいえ、山上さんを英雄として讃えるのには、ぼくは積極的には賛成できない。
 他方、それとは反対に、殺人は殺人であり、罪だから、容認したり支持したりすべきではないと言って済ませるのも、賛成できない。

2. ひとつハッキリしているのは、日本の民主主義にとっては、アベは死ぬほかなかったということである。生きて罪の償いをすべきだったのに、死なせたのはまずいというひともいるが、官僚(内閣人事局!)と司法(政府に決して楯突かない最高裁!)とメディア(何人のニュースキャスターが降板させられた!)と自党(小選挙区制で候補者決定権をもつのは党中央だ)を抑えこんだ権力の恐ろしさ、悪質さを思うと、生きて正当に合法的に罪を認め、その償いをするなどというのは、希望的な空想にすぎないだろう。
 では、アベが死ぬならなんでもいいかというと、そうもいかない。たとえば彼が大腸炎や交通事故で死んでも、社会には山上さんによる暗殺と到底比較にもならない微々たるショックでしかない。アベの犯した罪に相当する復讐によるのが、その罪を明瞭に浮かび上がらせ、最善なのである。

 山上さんは、その復讐者だ。だが、彼がほんとうに復讐したかった相手は文鮮明の妻、韓鶴子など、統一教会の幹部だった。アベは、山上さんにとっては、あくまで、倒すことが可能な代替的対象にすぎなかった。
 しかし、山上さんがもし韓鶴子を思い通りに倒していたら、それは単なるカルト集団の事件になってしまっただろう。そのカルト集団が日本の政界を牛耳っているという恐るべき現実がいまほどさらけ出されることはありえなかったはずである。
 その意味で、アベを倒すほうが韓鶴子を倒すより、統一教会に対しても、よりいっそう効果的なダメージになっているのではないか。だとすれば、山上さんにとって、いわば間に合わせの代用品として倒したアベのほうが、むしろ山上さんの意図を十二分に達成できたことになるのではないか。

3. ならば、私たちは山上さんの行為を讃えることになるだろうか?
 じっさい、彼を英雄と讃えるひとたちもいるし、そうしたくなる気持は、ぼくにもわかる。
 だが、上記のようなわけで、山上さんは本意ならざるところで功労をたててしまっている。想定外の英雄的行為をしてしまったのだ。だから、手放しで英雄扱いすべきではない。それは山上さん本人にとって変な気持のすることだろうから。

 というのも、山上さんはもともとアベ政権の政策に批判的なひとかどうかわからないからだ。私たちが彼をアベ打倒の英雄と讃えるのは、彼の気持ちとは無関係な私たちの勝手な騒ぎになってしまう。もちろん私たちはアベがいなくなってくれたことをありがたいと思うけれども、それは山上さんの思いとはまったく別のことなのだろう。

 他方、殺人は罪なのだから、讃えてはならないという、あまりに法にとらわれた見方にも、ぼくは実感にそぐわないものを感じる。アベの悪政と数々の不正(アベノミクス、国会無視、国会での嘘ばかりの答弁、なんでも閣議決定で片付けたり、臨時国会開会要求を拒否するなどの憲法違反の数々【それは大げさでなく独裁だ】、赤木俊夫氏を自死に追いやったような疑獄と官僚の文書偽造・抹消の横行、中村格などにみる不正な人事、内閣人事局による官僚支配、メディア支配、司法支配、小選挙区制による自党内の支配、伊藤詩織事件、原発再稼働、特定秘密保護法、安保法制、憲法改悪策動と統一教会との癒着、辺野古の米軍基地建設強行・・! そして彼の最大目標、改憲の中身は個人の人権・国民主権・平和主義の根本的否定だ!)は、民主国家の根本に関わる非常事態なのだ。クーデタは違法だが、それによって政権を奪取した者が、それまでの政権より国民のためになる善政をしくなら、誰がとがめようか。革命は法に反していても実行され、その結果が新しい、いい世の中ならば、とがめる必要はない。フランス革命は無血だったか? 

 上にあげたようなアベの悪事の数々は、おそらく山上徹也さんには関わりないが、我々は、とにもかくにもアベがいなくなり、それがこのように劇的なかたちになったことを、よくないことだと言うべきだろうか。喜んではいけないか。

4. ぼくが、山上さんを英雄と呼ぶのに賛成できないのには、いまひとつ別の理由がある。

 山上さんの行動を非難するひとは、それを「テロ」と呼んでいるが、ぼくは、山上さんのしたことをテロとは呼ばない。彼の行為は政治的な動機や目的でなされたものではないからだ。

 山上さんはよほど追い詰められなければ、あんなことはしなかっただろう。誰のせいで追い詰められたのか? 自民党を支持した日本人ももちろんだが、その自民党に効果的な抵抗も反撃もできずにきた、我々自民党批判派の日本人たちも、責任がないとは言えまい。だから、山上さんのような最弱の犠牲者が窮鼠却って猫を食むが如く、あの強大な権力ネットワークをもつ男に立ち向かうほかなかったのだ。我々は、だから、山上さんに詫びることはあっても、英雄扱いしてはしゃいだりするのは、なんだかあまり真面目でない気がするのだ。

 彼を英雄視することが、また別の暴力沙汰をも触発するのではないかという懸念をもつひともいるけれども、それは、単純に短絡的に暴力はダメです、とか、殺人はあくまで犯罪です、などと言っていれば防げるものではない。むしろ、山上さんのしてくれたことを正確に評価することを通じてしか、暴力の蔓延を防止することはできないのではないかと思う。
 というのも、あまりに杓子定規な法治主義を振りかざすと、それに対して有効な反論をするのがむずかしいだけに、有効な言葉を持ち得ないひとたちのなかで、山上さんを讃えたいと思った気持が閉じ込められ、鬱屈し、内向してしまうだろうからだ。
 だから、ぼくは、情としては山上さんに感謝と済まない気持を感じつつ、彼の刑ができるだけ軽くなり、出獄後も生活に困ることのないようにしてあげようというのが順当だと思う。

 山上さんのもとに金を送ってくるひとが多いそうだ。そのひとも統一教会の被害者なら、お礼として、支援として、送ってあげるのは当然だ。アベを殺してくれてありがとう、というつもりなら、それは山上さんにとってはお門違いだから、むしろ、統一教会にヒドい目にあっている山上さんを、助けてあげたくても、自民党を倒す力がなくて、済まなかったという気持で送ってほしい。

5. と、ここまで書いて、どんでん返しみたいなるが、以上は、山上さんの射った弾丸がアベの命を奪ったという前提で書いている。ところが、アベを死に至らしめた弾丸について、医師の発表と警察の発表は食い違っているのである。医師は弾丸は見つからなかったと言っているし、弾丸が当たった箇所が両者で大きく食い違っているのだ。これでは、山上さんが犯人とは断定できないかもしれない。検察は立件できるのだろうか。山上さん以外にトドメの一発を撃ち込んだ真犯人がいた可能性も考えられることになる。いったい、あんな事件の容疑者を、なんで4ヶ月も精神鑑定に付するのか?

 ↓これを是非読んでいただきたい。山上さんが犯人だという観念は払拭されるはずだから。

 

 さらにもうひとつ。山上さんの射ったタマが散弾のようなものだったなら、医師の言う2発以外に10コのタマが発射されている計算になる(6x2−2=10)。だとしたら、アベの周囲にいたひとたちのなかに負傷者や死者が出ているはずだ。ここから、山上空砲説というものが出て来るのは当然だろう。アベ射殺の映像を、ある人たちの発表している画像で見ると、山上さんの射った1発目のあと、2発目の直前に、それらとまったく異質の高い音が聞こえる。

https://www.youtube.com/watch?v=RaMiGZwmLEY

<付記 あるSNSで、山上さんの行動を、「群衆のなかにいる人物を、ほかのひとへの危険も考えずに銃撃した」と書いているひとがいた。とんでもない。山上さんは、ほかのひとに害が及ばないように至近距離に接近している。>


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