真説おもしろ桃太郎 芥川龍之介の再話にもとづく再々話
むかし、むかし、ある山の奥に大きい桃の木がありました。神代のむかし、伊弉諾の尊(イザナギノミコト)が黄泉の国から逃げてくるとき、その坂道で投げた桃の種が伸びたもので、その枝は雲の上にひろがり、根は黄泉の国に及んでいる、と言われていましたが、それは日本で広められた説です。中国では、孫悟空が天にいたとき、こっそり盗んで食べた蟠桃の種を吐き出したら、それがこんなどうでもよい田舎の山にまで落ちてきたのだと言われていました。猿の吐いた種では折角の桃の木のイメージが落ちると、日本人の一部の人は躍起となって言っていますが、中国人は、あの桃の木の種が伊弉諾尊が黄泉津平坂(ヨモツヒラサカ)に吐きだしたものなら、あのなんの変哲もない山が黄泉の国の入口ということになって、おかしくないか、と言っています。
その木に実った大きな実のひとつが、下を流れる川に落ちました。そして、どんぶらこ、どんぶらこと川下のほうに流れていったのです。
川の近くに住むオバアサンがそれを見つけて拾って帰りました。
オジイサンと一緒に食べようと思って、切ろうとすると、なかから赤ん坊の泣き声が聞こえたので、驚いて、用心しながら少しずつ果肉を取り除いていくと、なかから男の赤ん坊が出て来ました。
オジイサンとオバアサンは子どもがいなかったので、たいそう喜び、子どもに桃太郎という名をつけて育てました。
でも、桃太郎は、あまりいい子ではありませんでした。オジイサン、オバアサンのような木こりや百姓の暮らしが好きではなく、怠け者で、大きくなるほど、村で嫌われ者になっていきました。
でも、どこかよそへ行って、ひとがあっと驚くようなことをしてみたい、という気持だけはあった桃太郎は、ある日、よそで大きな稼ぎをしてくるよ、とオジイサンとオバアサンに言いました。
オジイサンとオバアサンも、不良の桃太郎に愛想が尽きていましたから、これはちょうどいい、早く出ていってもらおうと、旅の支度を調えてやりました。オバアサンは黍団子をたくさんこしらえてくれました。伝説では三つとなっていますが、ある小学校低学年の学童保育の先生が子どもたちにそう話したら、今どきの子どもは鋭い。たったみっつじゃ鬼ヶ島につくまでに飢え死にだよ、だいいち桃太郎の分はどうしたのさ、と子どもたちから疑問の声があがって、教員あがりの先生はたじたじ、話の先を続けられなくなった、という話を聞いたので、訂正しておきます。
こうして桃太郎は旅に出ましたが、ひとりだけでは心細い、子分がいるといいな、と思っていると、一匹の犬がやってきました。
「犬よ、俺についてこないか、何か世の中のひとがあっと思うようなことをしに行くんだ」と桃太郎が言うと、犬は、「いいですとも、背中にしょってる黍団子を私にもくだされば」と言いましたから、桃太郎は、「いいとも、いいとも」と答えて、ひとつ、くれてやりながら、ふと思いついて、「鬼ヶ島に鬼を征伐に行こうか」と言いますと、犬は、「それはいい。もうすこし仲間がいるといいでしょう」と提案しました。
するとそこに、猿が一匹来ましたから、桃太郎と犬は「俺たちは鬼ヶ島に鬼を征伐に行くんだ、ついてこないか」と声をかけると、猿も「そのおいしそうな団子を一つ私にください」と言うので、猿にもひとつ黍団子を持たせました。
猿もつれて三人で歩いて行くと、雉子が一羽飛んできて「背中に背負ってる黍団子をひとつ私にください」と言うので、「では一緒に鬼ヶ島に鬼を征伐しに行くか」と聞くと「行きますとも」という返事だったので、これも仲間に入れて、一行はとある海辺につきました。
そこにあった舟に乗り込んで、鬼ヶ島はどこだろう、とこぎ出しました。そのとき、舟の持ち主の漁師が「ひとの舟を勝手に使うな、返せ」とわめきましたが、後の祭りでした。
桃太郎と犬、猿、雉子は、南をさして舟をこいで行きました。黍団子を何日食べたのか知りませんが、何日も食べ続けられたのですから、ほんとうに質、量ともに日本一の黍団子かもしれません。もっとも、日本中にあるたくさんの黍団子のどれが一番かは誰にもわからないのに、桃太郎の話を伝えたひとが勝手にそう言いふらしているのです。
残念ながら、犬、猿、雉子は仲が良かったとは言えませんでした。犬は猿より牙がつよいので、猿に噛みついていじめましたし、猿は、雉子に八つ当たりして、羽根をむしったりするし、雉子はアタマの悪い犬を馬鹿にしてからかう、という具合で、桃太郎も困っていると、何日目かに、行く手に大きな島が見えてきました。
島は、やしの木がそびえ、美しい鳥がさえずる、天国のようなところでした。
桃太郎一行が浜辺につくと、島のひとたちが見つけて、駆け寄ってきました。日焼けした顔と体に赤や青や白、色とりどりの顔料を塗り、着ているものは腰蓑だけ、縮れっ毛のアタマには牛や鹿から取った角の飾りをつけたそのひとたちは、よそから来た桃太郎たちを、家に連れて行き、歓迎してくれたのです。
雉子がこっそりと桃太郎たちに言いました。「この島には鬼はおらへんで。どこぞよその島へ行かへんか」
犬は、「そうは行かねえべ、ここの連中から何かもらって帰ればいいっぺ」と言いました。
そのとき、家の中を見てきた猿が「奥の部屋にたくさん宝ものがあるでよ、あれを貰ってきゃあろう(帰ろう)」と言い、桃太郎たちは、どうやって宝ものを取っていこうかと相談を始めました。
そんなこととは知らない島のひとたちは、その夜、ちょうどお祭の日だったので、桃太郎一行を祭りに呼んでくれました。
芥川龍之介は鬼について、こんなふうに書いています。末尾を少し変えて引用しましょう。
たぶん、桃太郎たちは、自分たちを歓迎して宴会を開いてくれた島民が酒に酔っているときに、宝ものを盗んで逃げようとしたのです。
でも、島民のなかで、しらふだった人などがそれを見とがめ、争いになったのでしょう。
ここからの芥川の原文はきわめて迫真的なものなので、そのまま引用しましょう。読むひとは誰しも、ニッポンってスゴい、の念に打たれることでしょう。大幅に仮名をふやします。
芥川がどれほど正確にニッポンを見据えていたかは、この同義語反復の一節に明らかでしょう。自民党政権の国会での答弁はこの伝統に根ざすものです。
こうして、犬猿雉の三匹とともに日本に凱旋した日本一の桃太郎のその後についても、芥川は語ることを忘れていません。
この末尾、ニッポンはいつの世もニッポンなのだなあと思わずにはいられないではありませんか。
芥川の原文は青空文庫で読むことができます。https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/100_15253.html
大正13年に書かれた、この芥川の「桃太郎」について、Wikipediaには、次のような記述が見られます。
<芥川は上海で章炳麟(章太炎先生)から聞いた話を次のように引用した。
そのとき先生の言った言葉はいまだに僕の耳に鳴り渡ってゐる。「豫の最も嫌惡する日本人は鬼ヶ島を征服した桃太郎である。桃太郎を愛する日本國民にも多少の反感を懷かざるを得ない」。先生はまことに賢人である。僕は度々外國人の山縣公爵を嘲笑し、葛飾北齋を賞揚し、澁澤子爵を罵倒するのを聞いた。しかしまだいかなる日本通もわが章太炎先生のやうに、桃から生まれた桃太郎へ一矢を加へるのを聞いたことはない。のみならず、この先生の一矢はあらゆる日本通の雄辯よりもはるかに眞理を含んでゐる。>
よその国の罪もないひとたちを、勝手に一方的に「征伐」する近代日本人の感覚を、政治学者の丸山真男が「日本人の桃太郎主義」と呼んだのは、これに端を発しているのです。俳優の高橋英樹氏も、自分が演じて大いに人気を博した桃太郎侍を、あんなのは単なるシリアルキラーですよと言うとおりです。
たぶん、日本人に対してなにも悪い事をしていない他所の国民を「征伐」なんかするのは、秀吉の朝鮮征伐以来の日本の傲慢な悪習なのでしょう。古くは中国から伝来の仏教と漢字を伝えたのが朝鮮人でしたし、奈良時代の都の人口の8割は朝鮮人を主とする帰化人が占めていたのであり、秀吉もたしなんだ茶のために用いられた茶碗を焼いたのは朝鮮人であったというのに、それに対する、なんという忘恩でしょう。言語学は、日本語のルーツが、単語は南洋から、文法構造と一部の音声の構造は朝鮮伝来であることを明らかにしています。それどころか、平田篤胤が唱えた日文(ヒフミ)なるものは、漢字の渡来以前に日本で使われていた文字だと平田は主張したのですが、じつはハングルとほとんど変わりのないもの、偽作なのです。
以上、つよい共感をもって、芥川の「桃太郎」を再々話してみましたが、ひとつ怪訝の念に堪えないのは、芥川は桃太郎が日本国内で不当に鬼と呼んでいる南の島のひとたちを残虐に殺したり、子どもをさらったりしたことは批判的に書くけれども、そのひとたちがよそから奪って蓄えていたという財宝についてはひとことも語らないことです。よそから奪ったものなら、当然、桃太郎は日本にもいるであろう盗難の被害者に財宝を返す努力はしなかったのか。もちろん桃太郎がそんなことをするはずがないので、そのところもきちんと取り上げてほしかったと思います。
蟹は自分の姿に似せて穴を掘ると言います。米国、NATOの対ロシア圧迫の歴史を考えもせず、ウクライナ侵攻を一方的に非難する日本人は、自分たちの桃太郎主義を勝手にプーチンに見ているのです。
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