(長編) ライフ・スクランブル 2/8
「映画のタイトルにかけまして出演者の皆様の最近ついつい眺めていしまうことをお聞きしていきたいのですが、浅山さんは何かつ いつい眺めてしまうものはありますか?」
「そうですねぇ、リアルタイム映像とか見ちゃいますね。YouTubeで渋谷の今の映像とかが垂れ流しで中継されているんですよね。そういうのはついつい見ちゃってますね」
翌日に迫った出演映画の舞台挨拶で朝九時から夕方六時まで七つの都内の映画館を巡るという、久しぶりのハードスケジュールをこなしていよいよここが最後の現場だ。数十分間あらかじめ決められた質問をこなし登壇した共演者と仲良さげに喋っていれば、いい感じに時間が過ぎていくしいい感じのネットニュースになる。全員が誰に届いても毒にも薬にもならないようなことしか言わない。自己顕示癖の強い進行役ばかりなのはこういった現場では常だ。
「それでは最後にお一人ずつファンの皆様へメッセージをお願いします。まずは宮地さんお願いします」
最後の挨拶は面倒なんだよね。一日に一回だったら魂込めて思いの丈をぶつけられるんだけど今日はすでに六回もあった。本当の気持ちを七分の一に薄めなきゃいけないからしゃべってて自分で冷めちゃうんだよなぁ。
「きっと最後は皆さんの予想を裏切ってくれるような体験を提供できると思います。ぜひお友達を誘って何度でも見てほしいです。よろしくお願いします」
主演の宮地が頭を下げると場内は万雷の拍手に包まれる。落ち着いた頃を見計らって進行者が口をひらく。
「続いて、岡添さんお願いします」
自分らの関与はとっくのとおに終わっているがだらだら喋るのも契約のうちにあるため全員が言葉を捻り出しているのだが、さすがは役者といったところで誰一人として辛そうな顔は見せない。私はこの三人では最年長の為いちばんしっかりとしていたい、いつまで経っても自分のことばかり考えてしまう。
性根ではこの世界に向いていないのだろうなと短絡的に思いさっさとここから身を引く準備をしようと胸に誓う。
「今作は私の役者人生にとって大切な作品ですので一人でも多くの方に届いてほしいと願っております。ぜひよろしくお願いします」
焼き回した言葉を述べた岡添は宮地に倣い頭を下げる。前者とほぼ同等の拍手がこだまする。
「それでは最後に、浅山さんお願いします」
「はい、皆さん今日は短い時間でしたがお付き合いいただきありがとうございました。この三人は撮影中に身を寄せ合って励まし合いながら切磋琢磨した仲間だと心から感じています。たくさんの学びや気づきを与えてくれた今作とそれに関わってくださったすべての皆様に感謝しています。これからもこのような尊い出会いで溢れることを願って挨拶を締めさせていただきます。またどこかでお会いできる日を楽しみにしています。ぜひいっぱい映画館にお越しください。今日は本当にありがとうございました」
深々とお辞儀をし拍手を頭頂部で聞く。その合間に目頭を熱くさせて頭を上げる。堪えきれないと言わんばかりに目許を抑える。
「これにて映画『瞳を眺めている』公開記念舞台挨拶を終了とします。キャストの皆様をぜひ大きな歓声でお見送りください。本日は誠にありがとうございました!」
三人で呼吸を合わせて頭を下げると前列からのけたたましいシャッター音とその奥の拍手が場内に響く。宮地と岡添が降壇し最後にステージに残った私は集まった数百人の観衆に会釈し手を振り二人の後を追って扉をくぐる。
「浅山さんこの後予定とかってありますか?」
舞台挨拶後のSNS用告知コメントを各々撮り終えた後、軽い打ち上げをその場を行った。そんな最中に声をかけてきたのは主演の宮地大雅だった。
「どうしたの?」
私よりも二つ年下の男の子。ツルツルお肌の童顔で額の上には重いきのこヘアー、いかにも時代に合わせたイケメン俳優。本質的ではなく世間に迎合したライフスタイルを感じ取る私が苦手とする種族。彼の手許にはハイボール缶が握られていた。
「よかったらご飯とかどうかなって、焼肉なんかどうですか」
提案する前に一度答えを待つ練習をした方がいいぞ、若人よ。風体の割に積極性を有しているのは評価するが顔面だけが自信の根源である君には残念ながら私は靡かない。
「ごめん、予定ある。それに彼氏いるんだ」
「マジっすか」
分かりやすくへこむ宮地。態度に出されるとこっちが悪いことしたみたいに映るから勘弁してほしい。私が求める男は何事にも動じないやつだ。
「どんな人なんですか」
うるせぇ。言うわけなくね。
「どうだろうね、いい人だよ」
口角を上げて優しく伝える。もう帰れ。
「じゃあ明日も早いし、お先するね」
「そうっすね。お気をつけて」
顔が固まったままの宮地を置き去りにスタッフ陣への挨拶を済ませこの映画館が入っている商業施設の地下駐車場に向かう。エレベーター内ですばやく拓也に連絡しエレベーター前に周ってもらう。扉が開いてすぐに見慣れたBMWが止まっている。助手席に乗り込むと同時に拓也が車を走らせる。
「お疲れ様」
「本当にお疲れだよ」
微笑む拓也の横顔を眺めながら先ほど口にしたビールのアルコールが全身を巡る感覚を心地よく思う。目を閉じる。車内は拓也の趣味のエモポップが流れていた。
車がスロープを登って地上に出る。フロントガラスを西日が突き抜けて私たちを一瞬にして包んだ。
「今日、しよっか」
ふわふわした頭がロードノイズに揉まれてそんな言葉が口をついてでた。
「大丈夫?疲れてるでしょ。またでもいいよ」
「今日を逃したらまた日が開くよ。こっちから言ってんだから乗ってきなよ」
「ふふっ」
薄く目を開けて拓也を眺めると前をまっすぐ見つめながら笑っている。
「なによ」
「いや、美鳥ってさ昔から呑むとやりたくなってたよなって」
ほのかに自分の頬が紅潮してしていくのがわかって嬉しい羞恥心が込み上げてくる。拓也に顔を見られないように体を捻ってもう一度目を閉じる。
停車した時、微かに拓也の鼻歌が聞こえた。
私の心がカリカリしている。その理由は単純で一昨日の『皐月賞』で大損ぶっこいたのだ。
私の責任に他ならないのにどうしてこんな気分に陥らなければならないのだ。そこにもイライラが募る。
逃げ馬と穴馬を軸にそれぞれ二十点、計四十点を買い込んでいたのに逃げ馬がゲートが開いた瞬間につまづくというアクシデント。穴馬は中盤こそいい位置についていたが普通に捲られ九着。
その日から気がつくと視界がギュッと狭くなっていく感覚があり、頭を振って現実世界に留まろうとする。しかし時が経てばまた再びそこに陥る負のループ。一気に貯金額が寂しいものになった。並木に借りていた数百万の返金目処がぐっと後ろ倒しになった。
「大丈夫?」
カウンター席の右隣に座る拓也が私の顔を覗き込んで声をかける。
「なにが?」
「いや、なにがって、ずっと黙り込んで焦点も安定しない感じだし、なんかあったでしょ」
やはりこの男はできるヤツだ。
「何にもないことはないけど心配ないよ」
「本当に?それならいいけど、やばくなったらいいなよ」
「ありがと」
休日になると私たちはよく『cafe Pass Life』を利用している。外を出歩くのは私がいろいろと面倒だし彼もその辺を気遣ってくれて何一つ文句を垂れずについてきてくれる。付き合って間もなく彼もここの会員になった。というか私がさせた。彼は大学時代の友人と在学中に立ち上げた広告系ベンチャーの社長で収益も高い水準で安定しているため一発でここの審査も突破した。もっぱら私と一緒に行く時しかここを利用していないらしく、
「気取りたくないんだよね」
と言って私を少しムッとさせた。しかしそれを圧倒的に凌駕するほど私は彼のことが好きだった。
「どっかドライブにでも行こうか」
彼からの提案に私は少し疲れを覚えたがここに居続けるのも酸素が薄く感じてきたのでとりあえず賛同した。
「じゃあそうと決まれば出発だな」
「うん、その前にトイレ行っていい?」
私はカフェラテが入っていたカップとハンドバッグを持って席を立ちカップは返してトイレに向かった。今日は個室からは富士山は雲に隠れて見えなかった。
息が詰まりそうだ。なんとなく自分の肺が小さく感じた。
手を洗ってハンカチで拭った時、スマホの通知音が耳に届いた。池部マネージャーからのLINEだった。
カウンターに座っている拓也にドライブをキャンセルする旨を伝えエレベーターホールに小走りで向かう。
「これは本当?」
なんと言葉を発すればいいのか皆目見当が付かず今の私は黙っていることしかできずにいた。
南青山にある所属事務所の殺風景な会議室には私と池部マネージャーが向かい合って座っている。先ほどまで会社の社長の姿もあったがマネージャーの計らいで席を外してもらっている。
「まずはそこからよ、真実なの?」
目の前に広げられた二枚のA4用紙には写真が計三枚掲載されている。三日後に刊行される写真週刊誌の原本が事務所宛に送り付けられ私はこれらの事実確認を強いられている。
一枚目の写真は私が西麻布の路地裏でタクシーから下車する様子、もう一枚には私がカラオケ店に入る様子、最後は私が並木とあのボロ切れ女と親しげに話している様子が収められていた。あの日に付けられていたのか。
『トップモデルの”黒い交際”!撮影現場から直行した闇の巣窟で輝く笑顔!』
大きな文字が私を貶めようとする悪意で満ちていた。過剰に彩られた白黒の紙が業界からの追放指令のように重くのしかかる。
「どうなの?」
マネージャーは私がこんなの出鱈目だ、と言ってくれることを信じてくれている。そんな心境が彼女の話す日本語のあまりに丁寧な発音にこびりついている。
ここで嘘をつけば助かることもあるのかもしれない。並木にも説明して口裏を合わせてもらうことも可能だろう。でも、きっとどこかでそのメッキも剥がれて世間に真実は伝わる。その際今回よりも尾ひれがついてまわる。そんな人間をこの世界に十年以上も身を置いたら嫌でも見ることになる。私がその一人になる日が来たのか。
「概ね事実です」
マネージャーの落胆の吐息を感じ取りさらに居心地が悪くなる、ハナから居心地は悪いのだが。水で口を湿らすのも忍びない。
数十秒の沈黙の後にマネージャーが切り出す。
「じゃあ、この写真に写っている男性と女性は、そういう類の人たちなの?」
「男の方は、まあそうで、女の子は多分違います。この日に初めてあったんで真相はわかんないですけど」
「どんな経緯で知り合ったの?」
「若気の至りとしか説明ができないんですが、ハタチを少し過ぎた頃によく出入りしていた飲みの席があったんです。数年後そこで知り合った大人が紹介してくれました。初めは彼が極道の人間だとは全く知りませんでした」
「最初はなぜ接点をもったの?」
「借金です。私のギャンブルにハマり出した頃、最低限の生活費以外はほとんど競馬につっこんでいました。ある日一般人の友達が結婚式を挙げるので祝儀を包もうとしたんです。三万円で良いかなと思ったけどなんだかプライドが許せなくて。そんな話をした時彼が金融をやっているからそのくらいなら貸せると言い席を立ちました。数時間後、彼は百万円をもって現れました。返さなくていい、とも言いました。それから数回、借りています」
「合計は?」
「千五百ぐらいでしょうか」
「そんなに」
マネージャーが再び押しだまる。私はため息しか出ない。早かった鼓動も喋っているうちに落ち着いた。これか私はどうなるんだろう、この世界は無理だろうな、いろんな契約が破棄されていろんな請求が来るんだろうな、この事務所ともお別れするんだろうな、なんだか、全てが急で、全てがあっという間だったな。
今までなんだったんだろう。
「とにかく、事務所としては信用問題に関わるから記事については肯定します。事実としてこのようなことがあったことが確認されたと公表します。それで大丈夫かな」
「もちろんです。申し訳ないです」
マネージャーが会議室を後にして私はポツンと独りになる。左手の大きな窓から国道二四六号がよく見える。行き交う人々はこの事実を知ったらがっかりしてくれるのだろうか。そうなったら嬉しいな。
まず私が取るべき行動は身の回りの大切な人に報告することだろうと思い立ち、帰宅してすぐに拓也をダイニングテーブルに座らせ話の場を作る。私がカフェを飛び出したあと彼は一人で帰宅し私を待ってくれていたそうだ。本当に心配したんだよ、とシリアスな顔して言う。
「話があってね」
「うん、そんなにもったいぶるような事なの?」
「今から話すことは全て事実だからね」
「わかった」
「週刊誌に撮られた」
彼の弛緩していた顔に力が宿り黒目が大きくなる。
「なんで?」
私は一呼吸おいて口を開く。
「私、借金してるの、それが実は、闇金だったんだよね」
「はっ?」
今度は逆に力が抜けてしまったのか、拓也は椅子の背もたれに体重を預け顔からは覇気が魔物から吸い取られるようにして失せた。その様子がかわいいテディベアのようだなと思ってしまう。
「事実なんだよね、全部」
「美鳥はそれを知ってたの」
拓也は目も合わせず口を開く。
「察しはついてた」
「いくら」
「少なくはないかな」
「逃げられなかったの」
「そうだね、逃げなかった。慢心してたね」
ついに拓也の言葉が弊えた。品川のタワマンはあまりにも沈黙が似合わない。ここともおさらばかな。
「どうなるの、美鳥は」
「どうだろう、芸能界は無理かな、印象商売だし。黒すぎるでしょ、今の私って」
「そうかぁ」
ため息のように言葉が漏れる。聞こうとしないと聞こえないようなか細い声だった。
「いつ世に出るの」
「明々後日」
「一緒に考えよう、美鳥の人生」
拓也の力強い言葉に私は久しぶりに顔が綻んだ。ごめんね、そして、
「ありがとう」
それを発した瞬間から体の震えが止まらなかった。
週刊誌の発売日の朝からワイドショーは私を袋叩きにし、事務所の電話は鳴り止まないらしい。私はテレビをつけたり消したりして時間が過ぎて行くのをなんとなく実感していた。
昨日、私は事務所に赴き関係各所に電話での挨拶回りを自らした。お騒がせしてしまい申し訳ない、契約は打ち切っていただいて構わない、私は芸能界を自粛する、その三点をしっかりとスポンサーの広報の方に電話越しで伝える。
いろいろな言葉があった。急な報告に薄いことしか出ない人もいたし、未来を案じてくれる人もいた。水商売の厄介客のように説法を垂れる人もいた。私は何も言わなかった。その時はそれら全てが正しかった。
結局、七つ抱えていたコマーシャルは全て打ち切られた。二週間前に公開された出演映画は「作品自体に罪はない」とし、公開続行となったが確実に客足は遠のいたそうだ。
もちろんそれらには違約金というものが発生し合計二億一千万円が私の負債となった。私は全く違う人生を始めなくちゃいけなくなった。
「それは大変だな」
電話越しに並木は圧倒的な他人事感で生返事をする。
「あなたが元凶なのよ」
「そんなことはいうもんじゃないぞ。でも元気そうで何よりだよ、そうじゃねえと金も返せねえからな」
ずっと心にあった並木に電話する、という課題をようやくクリアできたのは週刊誌発売から五日後だった。これまでの日々食事はほとんど喉を通らず、風呂も入らず化粧もしてない。ただ息をしているだけ。鏡は見ていないが相当にこけてしまっているだろうと感じる。
「何か職の当てはあてはあるのか」
「ないね」
「紹介しようか」
嫌な予感がしたが今更どうこう言っている場合じゃない。
「どんな仕事なの」
「女性用風俗」
こいつはさらっととんでもないことを言うなと思ったが不思議とそんな気がした。
しかし、女性用?
「女性用ってどういうこと?」
「普通の風俗もやってるがお前はプライドが邪魔してやりたがらないだろと思ってな。お前に向けた提案の一つとして言ったまでだ。普通のやつがいいか?」
なんなんだよこいつ。こんな奴と出会わなきゃよかった。自分の行いをここまでしっかりと恨んだのは案外この時が初めてだと俯瞰して思った。
「どうするんだ、やるか?給料はいいぞ、負債やらこっちからの借金やらは一年半やってくれればチャラにはなると思うが」
「急には決めれないよ。時間をちょうだい」
「もちろんこの提案を受けなくてもいい。決まり次第連絡をくれ」
そう言って通話を終える。無の時空に再びほっぽり出された。あの日から締め切られたカーテンの奥からは部屋を微かな陽光が照らしていた。
「美鳥、入っていいか?」
扉の向こうから拓也の声が聞こえる。一人でいるのは心に悪いと言って一緒にいてくれていたが彼も仕事があるわけで家を出ないということはできなかった。そんなことになればもちろん自宅に引きこもって過ごしていたが徐々に拓也と顔を突き合わせることすら億劫になり、この二日間は完全に独りだった。その間も拓也は私の部屋に向けて声をかけてくれていたが返事もせずそれをただ聞いていた。しかしついに痺れを切らし突入してくるのだろう。
「いいよ」
「お邪魔します」
丁寧な挨拶をくれて拓也が部屋に入ってくる。スウェットを身にまとった拓也がベッドに縁に座る私の隣に腰を落ち着ける。少しの沈黙の後口を開いた。
「何か食べてるか」
「なんにも」
「そうか」
また沈黙。今度はかなり長めのものだった。何を話しても特段現状が変化することもない。気を紛らわせるようなエピソードもない。これが永遠なのかと感じさせられた。
「ここは引っ越そうかな、一人じゃ払えないからさ」
しょうがない、言ってみるか。
「可能性の話なんだけど」
「うん」
「知り合いが仕事を紹介してくれるんだって」
「うん」
「風俗なんだけどね」
拓也が生唾を飲むのがわかった。反対するんだな、そりゃそうか。
「あくまでも可能性の話ね、そんな道もあるよなって感じだけど」
「やりたいのか?」
「生きていくならね。あくまで可能性として、だよ」
「そうだな」
視界の隅で拓也は前屈みの体制になり肘を膝について指を組む。彼が深く思案するときの姿勢。ここまで本気で私のことを考えてくれる人がいるのは幸せ者の証だ。
「難しいな、人生って」
拓也が肩を震わせながらつぶやく。私たちの現状に笑えてきたらしい。
「ねぇ、拓也」
拓也が私と目を合わせる。私も逃げずにその目を見返す。
「もしその道に進むって言ったらどうする、どう思う」
拓也の目の中に映る私はあまりにも頬がこけ目に覇気が感じられなかった。
「応援したい、と思うと思う。ごめん、まだわかんないや」
「そうだよね」
私は目を逸らしてしまう。拓也は未だ私のことを見つめている。
「飯でも食うか?なんか作るよ、うどんなんかどう?」
「うん、食べる」
拓也は私の細くなってしまった指を少々荒めの手で優しく包んでくれた。彼の手もずいぶんと細くなっているように思う。
拓也と私は腰を上げて台所に向かった。
指定された場所は新宿の喫茶店だった。入ってみると店内の最奥のソファ席に並木ともう一人の薄サングラス男が並んで座っていて二人ともスーツ姿だった。私に気付いた並木が手招きし対面の席に座るよう促す。
「なんか頼む?」
並木は私にメニュー表を差し出しながらいう。二人の前にはもうすでにホットコーヒーが一つずつ鎮座していた。
「同じものを」
「すみませぇん」
並木が店員を呼びホットコーヒーを注文した。
「ご足労かけて悪いね」
店員が厨房に引っ込んだのを見計らって喋り出したのは初対面の薄サングラス男だった。
「いえいえ」
「マスクに目深の帽子、さすがは芸能人さん」
うるせぇ、それぐらいさせろ。
「あははは」
愛想笑いで乗り切る。それが果たせているかはわからない。
「並木からはなんとなく話は聞いてる?」
「なんとなくは」
「ジュンさん、自己紹介」
隣に座る並木が肘でジュンの脇腹をこづく。
「そうだった、俺は高元純志。よろしく」
握手を求める左手がテーブルの奥から伸びる。なんとなく握る。それはとても熱を持っていた。
「まぁ、あんたがいた世界に比べれば簡単な業務内容だ、心配はいらねぇと思うよ」
「はぁ」
「一応面接ってことだからさ、色々質問させてもらう。どうしても答えたくねぇことがあったら別に構わねぇけど本気で働きてぇっつんならなるべく全部答えてくれ」
「はい」
「準備はいいか」
ジュンは私ではなく並木に問う。並木はジャケットの内ポケットから小さなメモ帳とステンレスのシャーペンを取り出し頷く。店員が持ってきたホットコーヒーを私の目の前におく。この量で一杯六百円は流石にぼったくりだろ、渋谷のカフェより幾らか良心的だが。
その店員は去る瞬間に私の目を凝視した。
ジュンからの数個の質問をできるだけ詳細に答えた。風俗店の面接とあって性的な内容が多分に含まれているのかと思ったが意外とパーソナルなものばかりだった。こんなので何かわかるのだろうか、大丈夫ですかとこちらから聞きたくなるような肩透かしな気分。
「これで面接は終わりだ。いきなりだがいつから出れる?」
「もう終わりなんですか」
「そんなに聞くこともねぇからよ」
「そうですか。えっと来週からとか」
「わかった、また連絡があると思うからそれに返信してくれ」
そういうとジュンは席を立ち伝票を持ってレジに向かう。それに並木も続く。
「来週までには体重増やしといてな」
「うん」
私の目の前のコーヒーからは湯気が立ち続けている。
「じゃあ行ってきます」
私は玄関からリビングの方に声を投げる。
「ちょっと待って」
ワイシャツの上にエプロンをかけた拓也が風呂敷に包んだ弁当箱を持って小走りでやってきてそれを私に手渡す。
「弁当作ったからぜひ食べて」
「うわぁ、すごく嬉しい。ありがとね」
「もちろん、体力仕事だもん」
私たちはキスをして抱擁を交わす。開錠し扉を開け外に踏み出す。
「行ってきます」
「うん、気をつけて。また連絡ちょうだいね」
「はぁい」
扉を閉めてマンションの外階段を降りながらポケットからマスクを取り出し付けバケットハットをいま一度しっかりと被り直す。
あの日、帰宅後に拓也に正直に心中を吐露した。
「私、風俗やる」
拓也は私を否定しなかった。いつかその選択が正解だったと思う日が来るから頑張って。僕にもサポートさせて。彼はどこまでもいいやつだ。
業務内容は秋葉原の雑居ビルの一室で午前十時から、時には深夜までただひたすら女性客を罵倒し道具や平手で体中を殴打し続ける、ただそれだけ。そうするとかなりの給料がいただけた。
業務中はマスクをつけっぱなしなので顔売りができないため単価は低めではあるものの圧倒的な性根の悪さで初めて二ヶ月であるがリピーター等、顧客に不自由していない。
ジュンからも褒められた。最初っからこの道で行けばよかったと。それは全くもって勘弁なのだが、別に悪い仕事でもなさそうに思えてきた。
最初こそ人を殴ることに抵抗感があった。しかし仕事だと思って割り切ってやってみると意外に状況を楽しめた。本気で目の前にいるのは牝豚だと思えた。
自宅の最寄駅から日比谷線に乗り込み秋葉原を目指す。今日も夜の十一時までの勤務だ。
いつかの正解の日のために今日も身を削って働く。
[続]
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