(短編) 変わらないでと願う夏
蝉の声がさんざめく真夏の甲子園球場のスタンド席から私は球場全体をぼんやりと眺めていた。まだ小さかった頃に母と兄の試合を応援に行った時の記憶。
母のさす小ぶりな日傘のわきから見える青く澄み渡った夏空と輪郭がはっきりとした入道雲。それを全て飛び越えて私たちを照らすうだるほどの暑い日光。私たちの周りには他の選手の家族や強豪野球部の控えの面々が応援に喉を枯らす。
野球のルールをよく把握できていない時分ながらその場の雰囲気をハラハラドキドキしながら楽しんでいたように思う。
手に持っていた紙製の器の中でストロベリー味のかき氷が完全な液体となっていた光景を、なぜだかよく覚えている。
「フミくんはまだ?」
幼い私は隣でアームカバーやサンバイザー、サングラスに日傘といった日焼け対策万全の母に問うてみる。
「まだ出ないよ」
母は私の見上げる目線を気にもせずそっけなく言う。彼女なりに息子の出番がいつくるのであるかとヤキモキしていたはずだ。
そんな母に私は意地悪く無邪気に続ける。
「いつ出るの?フミくんはなんで教えてくれないの?」
「フミアキも教えられないよ。試合に出るのかもわかんないんだもん」
相変わらず私を見ずに母は言った。
なんだそれ。フミくんは試合に出た方がきっといいはずのになんで出ないかもしれないの?毎日あんなに練習してそれを『練習反省ノート』なるものに事細かに書き記しているのに出ないなんてありえない。
幼いにも程があるような論理だが私はそれを真剣に考え、小さな心をもって憤っていた。
そしてそれを突発的に行動に移してみることにしたのだ。
「フミくーんっ!出てきてよー!」
球場全体に向かって叫ぶ。自分たちが応援している学校の攻撃中だったのにそんなことをしてしまっていた。あの時打席に入っていた選手には悪いことをしてしまったな。
「ちょっと!アキホ!」
瞬発的に母が私の口もとを手でガッチリ覆う。その衝撃で日傘が揺れて真っ赤な太陽光が一瞬、私たちの脳天を焦がした。
私はお構いなしに叫び続けるがきっとくぐもっていただろう。そんなことを分かった上で叫ぶ。
「んいうーん!」
周りの大人やフミくんのお友達が私に微笑みかけていた。
「迷惑になるでしょうが!ゆっくり見ておきなさい」
母はそういったが小学二年生の女の子が野球をひと試合丸々じっとみるなんて難儀も難儀。できるはずがない。しかし母に言わせればそんな安易な言葉しか口にできない状況だったのかもしれない。
「フミアキさんはこの試合に出ると思いますよ」
私たちが客席で組み合ってプロレスもどきを繰り広げていると、前の席に座って応援していた坊主頭の野球部の高校生が振り向いて私の目を見て言った。
「ギリギリの点差なんで出るシチュエーションだと思います。いま肩作ってるんじゃないですかね」
私は口を塞ぐ母の手を引き剥がし尋ねる。
「ギリギリにならないとフミくんは出てこないの?」
「そうだね。フミアキさんはリリーフだからね」
なんだそれ。りりーふ?七夕じゃないと会えない彦星さまみたいなこと?
なんでもいいからとりあえずフミくんを出せ!
私は心の中で半べそをかいて喚いていた。
グラウンドでは打席の選手が打った球が非力にも土の上を転がってピッチャーに戻りファーストの選手に投げられ我がチームの攻撃回が終わったと記憶している。それと同時に鼓膜を揺さぶり続けていた応援が止み、近くにいた人たちから声が漏れる。
「試合終わっちゃったの!」
私は急に不安になった。周りの雰囲気が一気に盛り下がった気配がしたからだ。
「まだだよ。次にでもフミアキさん出てくるかもよ」
「やっと出てくるの?あんなに毎日『練習しなくちゃ』って言ってるのにちょっとしか出させてもらえないなんて、本当はサボってるんじゃないの?」
「アキホ!」
今度は私を両目でしっかりと捉えた母の怒号が響く。その声にまた周りの人たちが笑う。
私、そんなにおかしなこと言ってるのかな?
母が言う。
「余計なこと言わないの!一人ずつに役割があるんだから」
「監督ももっと早くフミくんを出せばいいのにね」
その時、場内に案内が流れる。
『コテガワ高校、選手の交代をお知らせします。ピッチャー、エモトくんに変わりまして、タキガワくん』
聞き馴染んだ苗字が呼ばれ私は飛び上がりそうなほど嬉しくなる。それを行動に移せたかどうかは定かではない。
いよいよフミくんが出る!?
アナウンスを聞いて多くの人が私を見た。
「おぉ!」
「いよいよだね!」
「来たぞ!フミアキさん!」
試合が始まった時から皆一様にテンションの高さを保っている。それの炎に薪をくべるのはやっぱりフミくんだ!
『九番、ピッチャー、タキガワくん』
ベンチを飛び出し球場の真ん中に駆けていくのはよく焼けた肌のお兄ちゃん。かっこいいフミくん。
ヒョイっとボールを拾ってキャッチャーへ投げる。いま練習しているのかな。
私はたまらなくなり声を上げる。
「フミくーんっ!がんばれー!」
振り絞ってマウンド上のフミくんめがけて女児の精一杯の声を張る。母は右手で日傘を指し左手は胸の前で強く握られていたために、私の口は塞げずにいた。
*
リビングで習慣つけているの日記を書き上げて寝室に向かうとダブルベッドでは夫のカズマがスマホを触っていた。画面の明かりで照らされた中年男性の顔が寝室の暗闇に浮かぶ。私はカズマの隣に入る。
自分のスマホでアラームをセットしてベッドボードに置いたとき、カズマが言う。
「キョウヘイが野球部に入りたいんだってさ」
今日の昼間におやつを食べながら見ていた甲子園を影響を受けての、彼なりの発言だろう。
「アキホが洗い物してる時に俺に秘密を言うみたいにささやいたんだ」
カズマの発言を聞く限りではキョウヘイの真意は分かりかねたが、炎天下で白球を追う高校球児たちの姿に何か感じるものがあったのだろう。
「いいじゃん」
睡眠モードに入ってしまっていた脳みそを私はどうにか起こして言葉を返す。まぶたがほとんど閉じかけているし体が沈み込んだように重たい。
「確か、お義兄さん野球部で甲子園出てたよね。あれも夏だっけ」
カズマが私を寝かせずに問うてくる。
「二回戦負けだけどね。リリーフだったし」
「出たことに意味があるんじゃん」
カズマによるごもっともな意見には返事をせず私は自分の息子があの場所に立つところを想像する。
暴力的な直射日光に照らされ、真っ白なユニフォームは土で汚れる。時折、球場全
体に響き渡る金属バットの甲高い音と、止まないブラスバンドの応援。
それらを受ける息子、もとい選手たち。
あの時の母もこんな感慨だったのだろうか。
そういったいろんなことがあまりに一瞬にして想像できてしまう。
早くて八年後か。
睡魔にのまれた私はもう限界だった。まぶたをおろす。広がる暗闇。
きっと、あの子ならきっと、甲子園球場で躍動してくれるに違いないと不思議な見栄を張りたい気持ちが私の安眠を助けた。
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