(短編小説) 桜の散る頃、気づきを得ること。
春の麗らかな陽気に照らされた教室は騒々しい。騒ぎたい盛りの小学三年生たち独特の高音は時間を早めていて、教師に時間はあってないようなものなのにそれを一切考慮しないその姿勢はなんとも清く正しい。
二時間目と三時間目の間の中休みに教室の隅の机で児童の宿題を確認しているのは、今年からこの私立小学校に赴任した三年二組の担任の山本先生、通称『やまちゃん先生』。いま手元にあるのは『毎日ノート』といって、児童が明日の時間割と三行の短いスペースに日記を書く個人連絡帳のようなもの。三十四人のクラス全員分を一日かけて読み、各々に一言返すのがなんとなくの個人的なルーチンワーク。手を抜く先生もいるのだが個人的にはしっかりめに返事が書かれていたほうが嬉しいかなと思い、そういった業を自らに課している。そのせいでノートの返却がギリギリになってしまう。
それに加えてこの学校は一年生から毎朝の小テストがある。国数理社英を曜日別で行い今日は金曜日なので英語の日だ。その丸つけも担任が行う。一回十問で基本的にマルバツのみだが、ここでも児童に一言書きたくなる。
『先週よりよく解けてるぞ!その調子!』や『字が上手になってきたな!ナイス!』などとりあえず書きたくなる。それはいいのだがやはりその分だけ時間を食ってしまう。
それらの結果、一日が四時間ぐらいに感じる。並びに、幸せも感じられている。
「やまちゃん先生」
時間に追われて呼吸を忘れていたのか、児童の声に顔を上げると反射的に思い切り息を吸い込む。机の向こうには嶋田かえでが同じ目線で立っていた。
「おん?どうした」
「先生って彼女いるの?」
脈絡を掴めなさすぎて脳の処理が追いつかなかった。その雰囲気を察したのか嶋田が口を開く。
「間違えた、ごめんね」
間違えた?
そう思っている隙に嶋田はクルりと踵を返し、女子グループの輪に戻っていく。何を間違えたのか。ため息をひとつつき視線を手元に戻すと、次のノートは嶋田のものだった。
『ママとお買い物に行きました。かわいいバッグを買ってもらいました。ママもかわいいおようふくを買いました。お出かけするのがたのしみです』
いつもとなんら変わらない溌剌な文章に二重丸をつけて、
『お母さんが買ってくれたものは大切にするんだぞ!先生に彼女できたらこっそりおしえます!』
と、返すがその望みはなんとも希薄である。こんな忙しない日々の中で恋愛する暇などどこにあるというのだろう。
シチズンの腕時計を確認する。あと二分で三時間目の道徳が始まる。
西日を受けてほんのり汗ばんだ体を鎮めるため緑茶に口をつける。喉を通っていく水分を感じながらペットボトルに蓋をしてそれをビジネスバッグに収め、タオルハンカチで汗を拭いネクタイを整える。
インターフォンを押して数秒後、「はい」と女性の声を聞く。
「お世話になっております。本日家庭訪問をさせていただく、山本と申します」
「こちらこそお世話になっております。今開けます」
自動扉が開き重厚なエントランスに入る。まさに高級物件のそれといった具合である。今日までに幾人のお宅を伺ってきたがここは頭ひとつ抜きん出ている。ソファーとテーブルが間隔を十分に空けて三セット備え付けているのが、メンタルとフィジカル両面の余裕を醸し出す。
エントランスから少々離れ厚い絨毯の敷かれたエレベーターホールから二階へ上がる。もちろん内廊下である。案内表示を確認し、お部屋に向かう。『207』のインターフォンを押す。扉の向こうから足音が近づき開場の音が響く。口角を上げて待っていると開かれたドアの隙間から女性が顔を出す。その若々しさに不思議な違和感を覚えた。
「お世話になっております。かえでさんの担任の山本たいちと申します」
「ご足労感謝致します。さ、どうぞ」
女性は笑顔を返して俺を玄関からダイニングテーブルに通す。冷蔵庫から取り出したピッチャーには麦茶が入っている。
「お構いなく、自分でも水分を持ってきておりますので」
「そんなこと言わないでください。日をまして熱くなってますでしょうに」
女性は俺の前に麦茶が七分目まで入ったグラスを置いて、対面に腰を据える。俺は意を決して違和感の正体を尋ねる。
「つかぬことをお聞きしますが、かえでさんの…」
「あっ、そうですよね。あの子の母にしては若すぎますもんね。私は吉川嘉代子と申します。あの子の母親の妹です」
そういうことなら合点がいった。しかし何故島田の叔母さまが対応するのだろう。俺の心中を察したのか吉川が続ける。
「姉は今闘病中でして入院生活を送っています。近くの病院なんですが。それで今日の家庭訪問は私が代わりに対応させていただきます。あれ、もしかしてまずかったですかね」
「いえいえ、何も問題はございませんよ。それでは早速ですが、かえでさんの学校生活のご報告と家庭内でのご様子をお伺いできればと思います。まず学校生活ですが…」
毎週金曜日の最後の時間はその週習った範囲の復習テストを行なっていて、その丸つけは各担任が土日に仕上げてくる、いわば”宿題”だ。それを終えるのは毎度日曜日の夕方ごろになる。今日もその通りになった。
「あ゛〜、終わった〜」
誰に言うでもなく口をついて出てしまう。そして腹が減った、何か食べに行こう。そうと決まれば行動は単純だ。
部屋着のスウェットから外着のスウェットに着替えて最寄りから三駅隣のお気に入りの町中華に赴く。いつものチャーハンセットを頼むといつも通り秒速で出てくる。それをしっかり味わいながらペロリと平らげ、会計し店を後にする。
そこから近くのディスカウントスーパーに向かって棒アイスバニラ味とキャビン三箱を買う。いつものルーティン。
無人レジで会計操作の朝中、隣のレジに既視感満載のシルエットが現れる。思わずその方向に首を振るとそこには嶋田かえでの姿があった。
「おう、嶋田」
こちらを見上げた嶋田は豆鉄砲を喰らったような顔で固まった。
「大丈夫か?」
「こ、こんにちは」
「おん、こんにちは」
俺は嶋田と並んで店から出た。嶋田は俺の指につままれたアイスを盗み見ている。
「好きなのか?」
「あまりアイスを食べないからわからない」
「食べるか?」
「いいよ」
「お姉さんには内緒だ」
嶋田は明らかに葛藤している表情を浮かべ、
「…いただきます」
とだけ言った。俺らは近くのコンビニのベンチで時間を過ごした。
「あの子お家ではとてもおとなしくて、私の言うことにもきちんと従ってくれています。ですから学校での姿は私が想像しうるものでした」
吉川に学校での嶋田の様子を告げると非常に興味深いリアクションをとった。クラスの人気者でどのグループも嶋田をとりあい、授業中でも発言も冗談の減らず口も一番多いのが彼女だ。いつも笑顔で周りを明るくできる女の子だ。
「そうなんですね、ご家庭ではどんなお子様ですか」
「品行方正、それにつきますね。冗談なんて一度も聞いたことはないと思います」
「おととい、嶋田の家に家庭訪問に行ってな、お姉さんとお話しさせてもらったよ」
夢中で棒アイスを食べる嶋田の手が少しスローになる。話を聞いていると感じ、続ける。
「家ではあまり喋らないと聞いて、俺びっくりしたよ。もちろん何を話せばいいのかわからないんだろうけど嶋田は話せば誰とでもすぐに仲良くなれることを先生は知ってるから、どんどんチャレンジしていってほしいと思ったよ」
嶋田の手はもうほとんど止まっている。
「ごめんな、いっぱい喋っちゃったな。ゆっくり食べていいからな」
その言葉通り嶋田は食を再開した。
「難しいんだよね」
手に持つものが木の棒だけになったころ嶋田が口を開く。俺は目を閉じタバコが吸いたい気持ちを落ち着けていたが瞬時に向き直り話を聞く。
「何が?」
「大人と話すのが」
大人?嶋田がそんなことを考えていたことに驚く。女の子はおませだなと感じる。
「先生とはこうやって楽しく喋れてるじゃないか」
「やまちゃん先生は別だよ」
「先生が子どもだって言いたいのか」
「やまちゃん先生は友達だからね」
小さな笑顔を咲かせる嶋田の手が甘い汁でベトベトになっている。
「手を洗ってくるか」
「うん」
ベンチからほど近いトイレに嶋田は駆けていく。来た、タバコチャンス。素早く新品のボックスのフィルムを剥がし一本を取り出し火をつける。一息が大きくなる。桜の木は半分ほどが葉桜になり出していた。
四口ほど吸ったところで嶋田が戻ってきた。携帯灰皿にそれをねじ込んで火を消す。
「やまちゃん先生タバコ吸うんだね」
「嗜む程度だよ」
「たしなむ?」
「…いや、そうだな、吸ってる」
嶋田は元と同じスペースに身を預けて口を開く。
「ただわからないんだ、大人のひとと友達になる方法」
俺はその発言に吹き出してしまった。嶋田の寂しそうな視線が俺の頬を刺す。
「嶋田、君はね俺の人生で出会ってきた人たちの中でトップクラスに話が面白いひとだよ。そんな人が話すことで悩んでいると聞いて思わず笑ってしまった、ごめんな。だから、何が言いたいかというと、君はありのままでも十分魅力的なんだから学校とも同じように何でもかんでも言っちゃえばいいと俺は思う。お姉さんもそれが望みだと思うよ」
嶋田は俺の目をまっすぐと見つめる。何一つ濁りのない二つの目で。
「寂しいときは寂しいと言ってみて、楽しい時も嬉しい時も」
小さく頷く嶋田。
「変わらないの、学校と」
「もちろんだ。嶋田が嶋田であれば、何も変わらない」
「わかった、やまちゃん先生ありがとう」
「それはよかった」
「ご褒美にタバコ吸っていいよ」
「やまちゃん先生おはよう」
桜が散る校門の前で嶋田かえでが大きな声で言う。
「おう、今日も元気に過ごせよ!」
「はぁい」
赤いランドセルが下駄箱方向に遠ざかっていく。
『今日はカヨちゃんとお買いものに行きました。かわいいバッグを買ってもらいました。カヨちゃんもかわいいおようふくを買いました。お出かけするのがたのしみです』
『お姉さんにいいものを買ってもらったな!大切にするんだぞ!』
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