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(長編) 大難波船 1/6

端的に言うと、四年ぶりの帰省は知らない人が増えていた。兄貴の子供(甥っ子)は俺の窺い知らぬうちに言葉を巧みに操るようになっていた。

「初めまして。おじさんのこと知らへんよな」

生まれた直後に一度会っただけだがおそらく彼の中では初めましてだろうからと考え俺はそのテンションで臨んだ。しかしそんな野暮ったい懸念とは裏腹に彼はグイグイ俺に迫ってきた。

「オレ、リュウセイくんのこと知ってんで」

「マジで?」

「芸人さんやねんやろ。リュウセイくんがテレビに出てたらパパいっつも言うてんで。『この人、祐希の叔父さんやで』って」

俺はその時思い出した。兄貴は元来からのミーハー心を強く持つ男だということを。

「そうやったんやな、ありがとな。でも実は一回会うてんねんで」

「えぇ、いつやろ?」

「祐希くんが生まれた直後や」

「覚えてるわけないやん」

祐希くんは大きな口を開けて反論した。えらくテンションが高い子だなと思った。ミーハー心を継いでいるのか、ただ無邪気で幼いだけなのか。はたまたその両刀使い?

「今日なリュウセイくんに会うの楽しみにしてたんやで」

「そうなん。それは嬉しいわ」

俺が答えると祐希くんは非常にわかりやすく小さな体をモジモジしだした。その様子があまりにも愛らしく可笑しかった。

「どしたん?ションベンか」

「ちゃうよ」

先まで陽当たり抜群の二階建ての実家でお互い正座をし肚を晒し合って話していた(つもり)のだが祐希くんはいよいよ体の向きまでも変えて、本格的に恥じらいだした。彼のひと口餃子大の耳はいつの間にやら真っ赤っかだ。

「マジでどうしたんか」

「いやぁ、恥ずいねん」

「こんなイケメンなおじさんを持てたことが嬉しくて仕方ないんか」

今度の俺の茶かしに祐希くんは乗ってこない。この小さな生物の意図するところを俺は全くもって計りきれずにいた。ただ時間だけが過ぎていく。

俺は痺れを切らしてそれまで釘付けだった祐希くんから目をはなし時を経て幾分小さくなったように感じる実家の空間を見やる。太陽光の筋を無遠慮なハウスダストがふわふわ横切る。

「俺も芸人になりたい」

え?今なんか聞こえた気がした。いや気のせいじゃないだろう。疑惑の音の震源地である目の前の少年に俺は急いで意識を戻した。この短時間で顔中を真っ赤にした祐希くんが何かを懇願するような目で俺を見上げている。

祐希くんの、やはり無邪気ゆえの突拍子もない言葉に俺はうまく返せなかった。これは一介の芸人としてはかなり大きいミスだろう。

「な、ええやろ」

瞬間では何とも言えず明後日の方を見て沈黙のオーラを出す俺に大きく見開いた両眼を向け続ける祐希くんは止まらない。

とりあえず言葉を返さなければ。

「あ、そやな。もちろんや。夢を持つことは素晴らしいことやで」

顔面にこめていた過剰な力をふっと解いた祐希くんは、今度は大きな笑顔を描いてみせた。

「せやろせやろ、オレな絶対おもろい芸人になんねん」

その時俺はふと不安を抱いた。祐希くんにとっての『おもろい芸人』に果たして俺は入れているのだろうか。

生き様と技術と時には関係性を振りかざして笑いを生み続けていくゲーム、適宜求められる役割等の水物をかぎ取ってそのオーダーに応え続けていく世界。そこに彼は夢を持っている。そんな彼を俺なんかが頭ごなしに否定できないず、曖昧な肯定風味で止めることにした。

「なんねんなんねん。おもろい芸人になったんねん」

俺の了承を得て嬉々としてはしゃぐ祐希くんは俺の前から立ち上がり、彼に言わせれば広々とした祖父母の家を駆け回る。祐希くんのその姿を見て俺は自らの過去を重ねる。こんな風に俺も走り回っていたんだろうか。何か嬉しいことがあれば彼のように全身でそれを表現できていたのだろうか。それらのことは自力では全く思い出せなかった。そんな自分がなんだか情弱野郎に感じられてならない。

「祐希、走らないの!」

台所で洗い物をしていた兄貴の奥様である、通称みーちゃんがテンションが上がった祐希くんにピシャリと言う。その余りの迫力に俺が驚いてみーちゃんのほうをみてしまった。その視線に気づいた彼女は俺に目礼で『うちの子が騒がしくてすみません』とでも言うように茶色の眉を下げる。俺もそれに応える。

リビングルームを周回し衝動をやや収め母の言い付けを実行する形で祐希くんが俺の前に舞い戻って言う。

「てかさ、リュウセイくんはどうやって芸人になったん?」

幼稚園男児の好奇心は止まることを知らない。俺は不意に、その場にいたすべての人間(ソファに腰掛ける両親とトイレから帰ってきた兄貴、並びに洗い物中のみーちゃん)が俺たちの会話に傾聴していることが容易く感じ取れるような気がした。今度のものは気がするだけだろうが、とりあえず俺は茶を濁すことにした。

「それは俺の企業秘密やからそう簡単には教えられへんな。もっと大きくなってから出直しといで」

「キギョウヒミツって何?」

「まぁ内緒ってことや」

「リュウセイくんひどい!」

「祐希!そんなこと言わない!」

祐希くんに母の落雷が再び直撃する。


久しぶりの帰省はわずか三十分間の滞在だった。少しはゆっくりできるかなというあまりにも淡すぎる期待は祐希怪獣の出現によって見事なまでに蹂躙されてしまったが、彼の将来に想いを馳せることは有意義なものに感じられた。そんなことはどこまで行っても俺のエゴにしか過ぎないのだろうが。

スマホでタクシーを配車しその到着を待ちながら、俺は玄関先でタバコをふかした。よく晴れた田舎の青空を見上げる。

ものすごい速度で変わっていく俺を取り巻く環境と俺自身の心境に目眩を起こしそうだ。いま手にしているすべては俺が臨んだものなんだ。欲しくて欲しくてたまらなかったんだ。それらを手にすれば報われる気がしていた。

しかし蓋を開けてみるとそんなことはなかった。

その時々で手にしたいものは俺の中で生まれ続けた。輪郭がはっきりしていないものの方が多い。沖に漂うそれらに向かって泳ぎをやめなかった奴が勝つ世界に俺は自らの身を置いた。荒波にのまれても強風に煽られても諦めなかった奴らがゴロゴロといる世界だった。

その後に続こうとする若さを自分勝手に綺麗にシカトし続けている。

俺にはこれしかないと思っていた。だが実際はそんなこともなかった。こんな俺でさえ食いっぱぐれることのない道も、本気を出して探せばひとつくらいはあっただろう。そうやって未来を見通せるほど過去の俺は器用じゃなかった。今ではすっかりこの道の歩き方しか知らない大人になっている。

いろんな遠回りを繰り返した結果、眼前に広がるこの空はあの忌まわしき大海原にも繋がっているのだとなんとも自然に思えてならない。

俺には本当にもうこの道しか残っていないのだろうか。

「あんたタバコ吸うんかい」

聞き馴染んだ声に振り返ると母が玄関から出てきていた。

「これ吸うてたら渋滞が緩和されてタクシーが早よ着くねん」

「やかましいわ」

愛息子が文字通り煙たがられる喫煙者だと言うのに母は何故か嬉しそうだ。すでに孫がいることから来る高齢者の余裕だろう。

俺の隣に来る母。風下に立つので煙が母の方に行ってしまう。それは忍びなく思い携帯灰皿に吸い殻を落としもみ消す。

「祐希くんデカなってたな」

携帯灰皿をケツポケットに収めながら会話のきっかけを放つ。

「たまには遊んだってよ」

「なかなか厳しいけどな」

「さすが売れっ子芸人さん」

親戚クオリティの野次を空に見送ると右から個人タクシーが来るのが見えた。

「ほら早く来た。じゃあな」

停車したタクシーにそそくさと乗り込む。

「時間あったら帰っておいでよ。タクシーで二十分ぐらいやろ」

「四十分はかかんで」

「そないかかるか?」

「かかるって。難波花月までお願いします」

運転手に行き先を告げると後部座席のドアが閉まる。窓を少し開けて別れの挨拶をする。

「ほいじゃ」

「とにかく健康には気ぃつけや。健康やったら何してもええからな」

「わかったわかった」

「よろしいでしょうか」

運転手がルームミラー越しに、関西のタクシーでは珍しく丁寧な口調で確認をとってくる。

「…ちょっと待ってください」

少し迷ってから運転手を制し、今度は窓を目一杯開けて母の顔を見る。

「再来月単独あんねん。それみんなでおいで」

「何やの急に」

「俺の舞台見たことないやろ。特別に見せたんで。俺らのライブはいまやプレミア
チケットやねんで」

「そうやな、お邪魔しよかな」

母は照れくさそうに言い放つ。

「また連絡して。席抑えとくから」

「はいはい」

「運転手さん、お願いします」

過去を置き去りに今に向かってセダンタクシーは走り出す。

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