(3/4)独りで歩く、誰かと走る。
十五時を回る少し前にチェックアウトした。あの後可奈さんが好きだと言った映画をホテルのオンデマンドで一緒に鑑賞した。内容がゴリゴリのホラーだったので俺はほとんど目を伏せ、キャラクターの悲鳴だけを聞き続ける一時間半を過ごした。感想を求められた際そのことを素直に打ち明けた。
「私の横でそんなことになってたんですか?最高ですね」
パァッと笑顔を咲かせて声高に言ってのける可奈さん。
錦糸町の青く澄んだ空、それに向かってスカイツリーが伸びている。俺の目線に気づいた可奈さんは、
「今日も地球に突き刺さってますね」
俺たちは目を合わせて微笑む。それに応え続けたい。二人手を繋ぎ世の中の脈動の波に漂う。
目を覚ましてから口にしたものは起き抜けのコーヒーだけなので互いに空腹感の共有をして駅北口のチェーンの定食屋に向かった。彼女はガッツリ系の定食、俺は体に優しそうなものにした。
「おじさんじゃん」俺の注文に笑う可奈さん。
「バレた?」
数十分ほどでささっと退店し、可奈さんを送っていくことにした。家までの道のりをダラダラと歩く。道中に猫を発見した可奈さんは俺の手をするりと抜けて近寄り頭を撫でてやる。猫も自らの頭を差し出す。ひとしきり撫でられた猫は今度は俺のところに寄ってくる。
近くまで来てようやく気がついた。アパートの一階に住んでいる平田さんが世話している三毛猫だ。そのことを伝えると可奈さんは平田さんに会いたいと言う。会って何になるのかわからなかったがとりあえず俺の自宅までいくことにした。
車道側から俺、可奈さん、三毛猫。並んで歩く。程なくしてアパートの下に到着。
「もっといいとこに住んでくださいよ。副店長なんでしょ?」
あまりのボロアパート具合に可奈さんの苦言が飛ぶ。
「引っ越す理由がないんだよ」
一〇二号室をノックするが応答なし。
「平田さん、居ますか?少しは心配してくれる人を連れてきたよ」
声をかけても応答がない。この時間ならいつもすぐに出てきてくれるのだが。買い物にでも出ているのか。
「なんの話?」
可奈さんが俺を見上げる。
「いいんだよ」
悪戯っぽく笑いかける。
三毛猫がお隣の一〇三号室に向かってにゃーおにゃーおと鳴く。するとそこに住んでいる俺より十個ほど年上の女性が扉を開けて三毛に目線をやる。生活リズムが違うからなかなか顔を合わせる機会もない女性。名前は確か『向井さん』といった。会ったら互いに笑顔を作り会釈ぐらいはする、感じのいい女性。
三毛がこちらを向く、それに合わせて向井さんも覗き込むように見る。怪訝そうな目がこちらを見ている。
「こんにちは。二階に住んでる脇阪です。一〇二号室の平田さんは何時ごろ帰ってきますかね?」
「平田さん入院してるのよ」
胸の中にあった、細いが決して折れないと信じていた柱が音を立てて折れた。それがまだ折れていないように感じることに神経を使ってしまい言葉が出てこない。それを感じ取ったのか、可奈さんが口を開く。
「どうなさったんですか?」
「今朝なんだけどね、洗濯物をしている最中に足を滑らせて転んじゃったのよ。すごい音がしたからベランダ越しに声をかけたら平田さんが『うぅっ』て。これはまずいと思って急いで救急車呼んだのよ。で、一緒に乗り込んで病院まで行って検査したら足の骨折っちゃったの。だからしばらくは入院生活よ」
「そうなんですか」
俺より早く反応してくれる可奈さん。
「病院はね噴水公園の近くに小さい整形外科があるでしょ、あそこにいるよ。顔出してあげな」
「そうします」
ようやく声が出た。
「この子平田さんにぴったりくっついてかいた冷や汗をずっと舐めてたのよ。健気よね」
向井さんは三毛を見下ろしながら愛くるしそうに呟く。そんなものどこ吹く風か、三毛は夕陽を浴びて毛繕いに勤しんでいる。
錦糸町駅に向かいながら向井さんから聞いた病院をネットで検索し、電話をかけてお見舞いに行く旨を伝える。
「二十分から三十分後に伺たのですが」
『確認いたします』
女性の声が穏やかな保留音に切り替わる。
「言葉遣い綺麗ですね」
「一応社会人だからね」
『もしもし、お待たせいたしました。こちらは問題ございませんよ。お待ちしております』
錦糸町駅前の商業施設の青果店でバナナを一房、書店でクロスワードを二冊買って病院へ向かう。院内はこぢんまりしていてもちろん清潔だ。白に温かみがある。受付にてかくかくしかじか説明をし、平田さんの病室を聞いて二人で階段を登る。それは二階の階段口から一番近い部屋だった。見慣れぬ空間にポツンと親しんだ顔を見つける。
上体が軽く起きたベッドで館内着を身にまとった平田さんがよく陽の入る窓ガラスの向こう側を眺めている。右足がベッドの奥から伸びる二本のパイプを組み合わせた柱に太い包帯のようなもので吊るされわずかに浮いている。
声をかける。
「お、きたきた」
こちらを振り返り嬉しそうな声を出す姿に安堵する。俺が来るとわかっていたような口ぶりだ。
平田さんは俺の後ろについていた可奈さんに気付き紹介する。
「こちら瑞原可奈さん」
「初めまして。瑞原可奈と申します」
平田さんははっきりとした発声で挨拶を返す。
「わざわざ脇阪くんについてきてくれたの?」
「いえ、私がわがままを言ってついてきちゃいました」
「これお見舞いに」
駅前で調達した諸々の入ったエコバッグを手渡す。平田さんをその中身を素早く確認する。
「あら嬉しいわ。暇で暇で仕方ないのよ。ありがとうね」
いつもの様子で痛く喜んでくれる。
「足の具合はどうですか」
「まぁ歩けないけど大丈夫よ。四ヶ月もすれば元通りだって」
平田さんは気丈に振る舞ってくる。笑顔を絶やさないのは見習いたいところだ。
俺たちは四十分ほどの時間を一緒に過ごした。可奈さんが初対面の人の懐に入るのがこんなに得意だったとはつゆ知らず、途中から可奈さんと平田さんがずっと話していた。主に俺についてのこと。
帰り際に平田さんはバナナを房から二本千切って渡してくれた。その場でいただき皮を平田さんのテリトリーのゴミ箱へ捨てさせてもらった。控えめな甘味がとても美味しかった。
「お大事になさってください」
可奈さんの溌剌とした声は病院の真っ白な壁よりも純なものに感じた。
*
それから俺たちは一年間男女関係を(比較的円滑に)続けた。
仕事では夏頃に勤め先の店長が出世し現場を離れ俺が新店長に就任した。業務自体の変わり映えはしなかったが肩にのしかかる責任と月末の給料が増えた。可奈さんは変わらず舞台の上で活動している。時間が合えば公演を見にいき、終わりにカフェで話をした。
この前の公演に業界の関係者が来ていたようでその人からのオファーでウェブCMが一本決まった。春先に公開されるらしい。
そして俺は相変わらずボロアパートで生活を続け、いつかの日のために私腹を肥やしていた。退院した平田さんは帰ってきたその日に具沢山のカレーを持って階段を上がってきた。
「ごゆっくりしてくださいね」
「ゆっくりしすぎて体が硬くなったら元も子もないじゃない」
かえす刀で受け取り頭を下げると三毛猫と目が合った。
なんとも気の強い可奈さんはこの軟弱男を日々ガンガン引っ張っていく。デートの日時も内容も何もかも可奈さんが決めてくれる。俺はそれを心地よく思っていたが同時に『たまには俺がリードしてやらなきゃな』と思い表参道でのクリスマスディナーをセッティングした。
半蔵門線表参道駅から出ると空から雪が舞っていた。
「綺麗だね」
表参道のイルミネーションを見上げる可奈さんの瞳に細かいLEDが反射してその輝きを増幅させる。鼻先についた粉雪を人差し指で拭う可奈さん。
ただいまの時刻は十八時五分前。二十時からのディナーに向けてそれ用の綺麗目な服を見繕って楽しもうというデートプラン。我ながらなかなかクールなアイディアではないかと思う。
この日のために数ヶ月前から貯金していた二十三万円を握りしめてラルフローレンへ。並木道に佇む洋館風の店に入り二人で物色を開始した。彼女は明るい色のアイテムを好んで手に取った。俺は反対に落ち着いた色味のものばかりを前腕にかけていく。一時間ほどをかけてゆっくりとショッピングをする。ここは俺が、と会計を済ませて更衣室を借りてそこで着替えた。
可奈さんはラルフローレンらしい柄のシャツの上に爽やかな青いニットベストを合わせ、細かいプリーツの入ったシックなロングコートを履きキャラメルのトレンチコートで引き締めたスタイル。俺は白のオックスフォードシャツに赤のネクタイを締め可奈さんのものとは色違いのニットベストを合わせる。トラウザーにはやはりプリーツが入り可奈さんおすすめのちょっとヤンチャなMA-1を羽織る。
「派手すぎじゃないか」
「若見えですよ」
足元はお揃いの濃紺のスニーカーを履いた。
一気に懐が寒くなりなんとも金のかかるデートだが、終始可奈さんの顔に笑みが浮かんでいたので数年に一度ぐらいはいいのかなと思った。
元々着ていた洋服たちを頂いたラルフローレンの紙袋に納め店を後にした。十九時を少し過ぎたところ、都会を流れていく風が一段階寒さと風力を増したように感じる。二人でピッタリとくっついて歩く。腕を組み自分のポケットに各々手を入れているので歩きづらくて仕方ない。首をひそめて寒さに耐える。
それから避難するように表参道ヒルズの裏のカフェで時間を潰す。俺はホットレモンティー、可奈さんはアールグレイで一息つく。寒さにやられた体に温かいビタミンが染み渡る。向かいで可奈さんも幸せそうな顔をしてカップに口をつけていた。
時間ぴったりにレストランに到着し手荷物と先程購入したばかりの外套を預けて個室に通していただきディナーを楽しむ。長い時間をかけてコース料理を堪能した。
若い頃に二度ほどこう言った形式の食事をとったことがあったが、可奈さんは初めてだったらしく俺は訳知り顔でその対面に座る。聞いたことのない長い名前の赤ワインとレアの和牛に舌鼓を打ちデザートの前にお手洗いに立つ。その隙に会計を済ませ席に戻り、複雑な味の甘味を頂く。可奈さんからの感謝の言葉を頂戴し店を後にする。
「人生で一番幸せな食事でした」
その一言に救われる。
アルコールが抜ける前にクリスマスで人が行き交う表参道の真ん中でキスをした。
年が明けるその瞬間を可奈さんと過ごそうとしていた。ボロアパートの自室でこたつに足を突っ込み取り止めのない話をして時間を費やしていた。
「平田さんにご挨拶に行こうよ」
二十三時四十分に可奈さんは言う。
「こんな夜中に行くと迷惑になるから、明日でいいじゃん」
可奈さんの提案をあしらうが『今年世話になったんだから今年のうちに言っといたほうがいいの。少しだけなら迷惑にならないから』と言って聞かなかったので渋々了承し一〇二号室へ向かう。平田さんのテレビからは『ゆく年くる年』が流れていた。
「わざわざありがとうね。さ、どうぞ上がって」
「いえ、ご迷惑になりますので」
「いいんですか!お邪魔します!」
俺の遠慮をよそに可奈さんは平田邸へ押し入る。そんな彼女を平田さんは満面の笑みで迎え入れる。部屋の暖気が漏れ出る前に俺もお邪魔することにする。
「明けましておめでとうございます」
その瞬間はすぐにやってきて俺たちはよそ行きな言葉を交換した。物陰から三毛がのぞいていたのを俺は見逃さず迎春の念を彼(または彼女)に送った。
年を跨いで数週間した頃、可奈さんのご実家にご挨拶に伺った。地下鉄を乗り継いで一時間半の電車の旅。夕方の川越駅ではすでにお義母さんが軽自動車で迎えにきてくださっていた。
「初めまして、可奈さんとお付き合いさせて頂いております。脇阪涼治と申します」
「ご丁寧にありがとうね。可奈から伺っていますよ」
可奈さんは助手席に、俺は後部座席に乗り込みご実家へ向かう。十分弱で到着しお義母さんと可奈さんの後ろについて敷居を跨ぐ。戸建てのリビングにはお義父さんがいらっしゃった。
「こちら心ばかりのものですが」
挨拶もそこそこに、あらかじめ可奈さんから聞いていたお義父さんの好みの日本酒と同じ酒蔵で造られている酒を手渡す。
「嬉しいなぁ」
表面上は笑顔で受け取ってくれる。その奥にある警戒心を感じ取れないほど俺は鈍感になれなかった。
お名前を伺い敬称をつけて呼んだ。達(トオル)さんはゴルフと酒が趣味で葉子(ヨウコ)さんは若い頃アイドルの追っかけをしていたらしかった。
四人で夕食を囲み話をした。主題は俺がどんな人生を歩んできたのかと言うことだった。要所で可奈さんが俺の印象が最大限良くなるようにアプローチと補足をしてくれた。そのおかげもあって食事の最後、俺の手土産の日本酒をみんな(葉子さん以外)で嗜む頃には俺はこの空間がなんとも心地よく感じていた。
葉子さんに川越駅まで送っていただき、来た道のりの逆を辿りながら可奈さんと話をした。受け入れて頂いた様子でホッとしたこと、素敵な家で生まれ育ったことに感動しっぱなしだったこと等を伝える。
「次は私がお邪魔する番だね」
俺の左肩に頭を預けながら二人で電車に揺れる。途中の駅で電車が止まった。積雪の影響で遅延が起き復旧するまで動かないとアナウンスされる。もっと可奈さんと時間を共にできることに心から感謝した。
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