(長編) 大難波船 3/6
セダンタクシーからの車窓はしばらく続く低い建物たちを映し出していた。その奥にある広い空はこの先徐々に狭まっていくだろう。文字通りのスカイブルーで目を焦がせられることは、日ごろ大都会に住む身としては有難い静謐なもののように感じる。
自らの母親にあんな恥ずかしいセリフを吐ける日が俺にも来たのかと感慨にふけていると、
「兄ちゃん、なんかやってんの」
帽子の隙間から白髪ののぞく運転手さんが快調に車を飛ばしながら声をかけてきた。
「へぇ?」
急な呼びかけに俺は情けない声が口をついて出てしまった。ルームミラー越しに運転手さんと目が合う。
「いや、ごめんな急に。さっきの会話聞いてもうた」
「あぁ、大丈夫ですよ」
俺は何となく気恥ずかしくなり目線を外に逃がす。春先のさわやかな晴れ模様と相反する車内のむずがゆい空気が急に心が落ち着かなくなる。
「実は芸人をやらせていただいてまして」
「芸人さんかいな。大変な商売やな」
「いえいえ、まだまだそれに毛が生えたようなもんなんで」
陽光に眼球を照らしながら応える。
そこから口火を切ったように運転手さんは話し出した。それによると運転手さんには芸人を志している十代後半のひとり息子さんがいるらしかった。高校生の年頃なのだがろくに勉強もせず深夜ラジオにメールを出してばかりだとのことだ。俺が言っては何だがそんな出来の悪い息子の話なのにもかかわらず彼はなぜか嬉々とした表情と口調だった。
過去の自分もその息子さんと似たようなものだったなと思う。しかし、俺が運転手さんの立場だったら、そんななんの足しにならないようなことをせず今は勉強に精を出したらどうだと言ってしまうかもしれなかった。
自分のやってきたことに責任などみじんも感じやしなかった。
「もし顔を合わす機会があったらよくしてやってください」
話でしか聞いたことのないその彼から、『あの時の息子です。その節は父がお世話になりました』と言ってこない限り自分は何もしてやれないのだが、
「もちろんですよ」
気が付けば俺はよく考えもせずその場しのぎで口を動かしていた。
運転手さんはそれからも俺に言葉を浴びせ続けた。俺は後部座席から車外を見つめてそれらに失礼のない程度と頻度の相槌を打つ。その間タクシーは国道を南西に下っていく。早くたどり着けと心から思う。
あぁ、タバコが吸いたい。
「兄ちゃんは何で芸人になったん」
「ん~、なんででしょうね」
俺の間の抜けた声で返答をはぐらかしたとしても運転手さんはお構いなし。俺はどうにかして言葉を紡ごうと努力する。
「将来を考えたときにそれしか思い浮かばんかったんですよねぇ」
「そんなことあるか?」
赤信号のためスピードを落としながら運転手さんは笑い交じりで言う。
「ですよねぇ。今考えればそれがえらい幼稚な考えやってことはわかるんですけどな」
なんでこのおっさんにこんなこと話してんだ、俺。それこそ、この時間は何の足しにもならないのに。
乗車してからずっと運転手さんの声はカーステレオ替わりで、俺の耳に右から入って左に流れていくだけだった。嫌にうるさいボリューム感だが俺は『こんな時間はあっという間に過ぎ去るぞ』と後部座席の背もたれに全体重を預けながらルーフをぼんやりと眺め、己を鼓舞し続けた。
それからどのくらいが経っただろうか。
「兄ちゃん、ここらへんでいい?」
ひどい長時間だったと思うのだが、腕時計の長針はまだ一周もしていなかった。気が付くとタクシーは難波花月の目の前に停車していた。
「っあ、はい。大丈夫です」
「じゃあ9460円です」
俺は傍らに置いてあったリュックの中の長財布から万券を取り出し手渡す。
「これからお願いします」
俺はそれを運転手さんに渡してすぐに車から体を出す。
「ちょいちょい、おつり」
「終わりに酒の足しにでもしてください」
「悪いな」
顔をほころばせた運転手さんはドアを閉めると同時にそそくさと車体を発進させた。
俺はリュックを背負いなおして身を振り返る。若手芸人が多く在籍し日々しのぎを削っている劇場を仰ぎ見る。
俺たちの主戦場。今日も今日とてより多く笑わせたもん勝ち。負けるつもりは一切ない。
呼吸を整えて歩き出す。道行く人々をかき分けて関係者入口に向かう。
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