ブランディングについて“葵の御紋”から考えてみた。(#14)
首相官邸に豊臣家の家紋が、という疑問
2020年4月日本において新型コロナウイルス感染拡大を受けて緊急事態宣言が発出されました。宣言の解除まで約一か月弱の間、幾度となく様々な場所で会見が行われたのは記憶に新しいです。慣例的に会見は通常総理大臣官邸(通称、首相官邸)で行われます。日本以外ではアメリカならホワイトハウス、ロシアならクレムリン、韓国なら青瓦台に相当する場所です。
なお、アメリカ(写真左上)やロシア(同右上)は国章を使っており、韓国(同左下)では大統領章です。日本(同右下)は韓国同様、国章を用いず、桐紋を政府紋章として使用しています。
ちなみに日本の国章は菊紋です。(※韓国の国章は文脈から逸れるため割愛)
桐紋は豊臣家の家紋と同じです。いったいどなぜこの紋を使用しているのでしょうか?
そもそも桐紋とは何か?
その前になぜ豊臣家が桐紋を用いたかです。
かつて戦国武将は家紋意匠を恣意的に選んでいたことに由来します。
ちなみに国章である菊紋は鎌倉時代に後鳥羽上皇が愛用したことに由来するようですが、
天皇家由来家紋はいくつかあり、それに伴い、“暖簾分け”のような家紋が存在していました。それが「桐紋」でした。
要するに皇室の権威を利用したい下心から、或いは名誉としてなど様々な思惑が渦巻く中、桐紋の使用許可がされていったのです。
その一人が織田信長であり、豊臣秀吉でした。
特に天下統一を果たした秀吉は家臣に桐紋を暖簾分けしていったそうです。
そうして一大“桐紋ファミリー”を作り、強い連携を図っていたのです。
徳川家康が“桐紋”を拒んだ理由
反して徳川家康はそんな桐紋の使用を拒んだそうです。当然、彼も豊臣家臣の一人でした。
理由は秀吉が死んだ後の世界をみていたのかもしれません。
自分の家紋価値を高めたいという発想があったようで、実際江戸幕府を開いた後、徳川家以外の葵紋使用を禁止していきました。
桐紋を俺色に染めた秀吉に対し、その桐紋と相反するカタチで葵の価値を高めていきました。
秀吉の影響力が強ければ強いほど、相反する目印として際立っていったわけです。
言ってしまえば天皇の影響力ではなく、秀吉の影響力を利用したといえるかもしれません。
結果、後世をみれば分かる通り、多くの日本人は徳川の三つ葉葵は見ただけで悪事を止める、そんな“ドラマのような話”まで辿り着きました。
そして明治維新。明治維新とは幕府から反幕府(新政府)への転換であります。
つまり “ vs 葵紋” なのです。
しかし新政府軍が掲げた錦の御旗に描かれてあるのは菊紋です。
その後、大日本帝国政府が天皇中心の国作りを進めていき、神格化された天皇とその“暖簾分けとして”の政府が使うのに桐紋は最適でした。第二次世界大戦後憲法など様々な部分が変わりましたが、細部は名残として今なお留まり続けているのです。
今持っているものを特別なものにするには?
伝統とはそもそも初めはただの独創です。それが周囲との差となり、認知される過程で、個性となり、各々の価値証明として成り立っていきます。
全ては時と共にあります。
エルメスのロゴマークもそうです。“馬・馬車・従者”は元々馬具メーカーだったことを指します。そしてその頃と変わらない高級品質を提供する象徴となって今なお光輝くに至ります。それだけでエルメスを物語ってくれるのです。
イチローの背番号51は、高卒ルーキーに球団から与えられた番号でした。やがて彼の実績が数字に意味を付与していきました。
徳川家の三つ葉葵はもとは一つの家紋です。
後世とは、様々な経緯で今に至り、それを目撃します。
未来に向けて自分自身の価値が高まっていけば、大事にしてきたものも自ずと高まっていきます。
そのとき、きっとそれがあなたを象徴するものになっていくのでしょうね。
頂いたものは知識として還元したいので、アマゾンで書籍購入に費やすつもりです。😄