年齢差なき社会

2022年12月30日、大阪京橋に向かった。行きの京阪電車、小学高学年の男の子と40代と思しき母親。学校か塾かのクラスメイトらしき人のことを、「あの子は頭がおかしい、障害持ってるんちゃう」と吐き捨てる母親。母親の子への距離も近く友達のような話し方だ。人は差別思想が頭の中に無いことはないし、それをつい話してしまう交友関係もあるだろう。ポリコレ渦巻く多様性推進社会において、自らの差別思想を声に出すことは必要にも思う。声に出すことで初めて指摘され自らの差別性に気が付くからだ。だからといって親が小学生の子との交友関係において差別思想を吐露するという歪な構造は如何もしがたい。親が子と井戸端で誹謗中傷してどうするのだ。毒親という言葉があるように、親に差別性を指摘出来ない小学生には毒でしかない。
 とはいえ自分に照らしてみても、差別性を指摘し合えない関係性というのは多数ある。例えば、先輩後輩の類いはそんな場合もあるし、職場の関係もそういうことも多々ある。権力構造だけでなくとも、若い女性からのポリコレにモラハラを感じても指摘出来ないこともあり得る。それってちゃうんちゃう、と言った方が相手のためにもなると思いながらも、怒ってくれる友達を大切に、というような基準に達さないので、指摘して言い争いになることが面倒だとその面は見ないでおこうと自分に言い聞かせ薄く広い人間関係を継続する選択をする。こうすると一部の友人を除いて、諦めるか毒に準ずるかの二択を迫られるのが差別思想やポリコレが渦巻く多様性推進社会を生き抜く生活の基本的態度となる。
 ただし人格形成の過程、本当の友人に出会えるまでの途中の場合、多様性推進というのは正義を前提とした悪循環を生む可能性がある。毒親を諦め心を消さざるを得ない子どもたちがいるのは、多様性推進社会で病みが可視化された大人の社会不適合による弊害だろう。迂闊にハラスメント的言動を取れない社会でストレスが溜まっている未熟な大人が毒を吐けるのは誰が相手かということだ。大きな問題は未熟な大人が更生する機会は訪れないことであって、対して、正しさを追求する多様性社会は進化を続けてしまう。ポリコレで社会問題を解決した風になっている今、これからもっとポリコレが進むだろう社会、そういった正しい言説には教科書的理屈だけでは解決し得ない人間同士の泥の部分も共有する人間臭い社会コミュニケーションを大切にしていかないと、息苦しいしおもんない、というだけでなく、未熟な大人が正しさを公言する時代が多様性社会の解答という本末転倒な一部の今が未来を構成してしまうだろう。
 正しさを公言する未熟な大人が更生し成長する機会が、75歳まで働け社会の中で必要とされているだろう。とはいっても周りを見渡しても、おっさんおばさんコミュニティーは多数あれど、未熟な大人同士の馴れ合いの場としての機能性しかなく、自らの未熟さに気づくことはなさそうだ。やはり成長
過程にある若者から未熟さを指摘されるそういった関係性を築くことができる年齢差を感じさせないコミュニティー形成が大切だと思うし、そのコミュニティーは社会の鍵となるだろう。言うなれば未熟な若者と友達になって成長して未熟さが減っていく若者に未熟な大人が置いてけぼりにされてはじめて未熟な大人が自分の未熟さに気づく構図こそを進化を続けたい多様性社会が求めているだろう。だから私は環境、情報化、多様性社会の次に年齢差ない時代が到来することを待ち望んでいる。

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