【日記】今日までのこと
読書
ほとんど柄谷行人の『日本近代文学の起源』、それに引き寄せられて国木田独歩『武蔵野』を読んでいる。
柄谷は、『武蔵野』の内容にほとんど触れずに、道具としての文章に注目している。あまり、そのような読み方はしてこなかった。しかも、その文章が内面をそのまま表現している、透明な道具としてあることが、小説としてのエポックな場面であるといったような主旨。今まで、透明なものに着目するということをしてこなかった。
はじめの「武蔵野」は、一篇を貫いて、武蔵野という土地について、作者の視点で語っている。素朴なエッセイのようだ。だが、これは計算されていて、次の「郊外」は、「武蔵野」の最後を引き受けるように、その郊外の様子が描かれているのだろう。まだ途中までしか読んでいない。(20日)
映画
『ミクロの決死圏』を見た。
リチャード・フライシャーという映画監督を今まであまり意識していなかったが、あの『ソイレント・グリーン』の監督だった。
ミクロの決死圏は、一時期話題にはなっていたけれども、発想の点で驚くべきところは、それほどないように見える。今まで、アウタースペース、宇宙に焦点がいきがちだったものを、内宇宙、この場合は人間の身体自体に移した、ということだが、こういうことは、第二次の世代のSFは盛んにやっていた。だが、ソイレント・グリーンについては、食糧問題を取り扱った、テーマはありがちだけれども、あの大オチがあるおかげで、エポックなものになっている、という気がする。
他にも、堅調なSFやその他の映画を製作しているようだから、この監督を軸に見ても面白いかもしれない。(22日)
noteのおすすめ記事
國分功一郎の本を通じて、フーコーの「パノプティコン」、監視する権力について語っている、noteの記事が、おすすめに出てきた。
曰く、パノプティコンは拙い。監獄だけではなく、その権力の手が学校や病院にまで伸びてきた。介護施設の悪いところは……と続く。
いろんな意味で、この記事が拙そうだ。
パノプティコンという語で、あるいはそれを通過するようにして、フーコーは何について語ったか。我々の身体に染み込んでいる権力について語ったのだ。誰かから受ける被害、権力を持った一人物から揮われる暴力のようなものとして、ではない。我々が是認する、「よいもの」の構造としての権力だ。いい点を取ることを善とする権力。計測して、日誌に書き込む権力。だから、我々が何かの成績をよくしようと思ったり(それは、仕事をしている人なら身に覚えがあるはずだ)、体重を日々計測しているときに機能する権力、だから我々の身に染み込んでいる、容易にはふるい落とせない権力について言っているのだ。こんなことは、自分の中では常識のつもりだった。
そのnoter(?)は、あたかも國分功一郎が、そのような文脈で語っているかのような書き方をしていた。そうなると、國分功一郎が拙っているのか? 僕は『暇と退屈の倫理学』には少し感心したから、もし本当にそうだとしたら、見方が変わってしまう……
もし、そのnoterの読み方が恣意的あるいは偏っているものであるならば、単にその人が間違っているで済むのだが……