【日記】映画『ファンタスティック・プラネット』を見た
1973年制作、フランスとチェコスロバキアの共同制作らしい、映画の『ファンタスティック・プラネット』を見た。画のインパクトがあるので、記憶に残っている。映画内で喋っている言語はフランス語だった。どこかでチェコ語もあるのかもしれないが、よくわからない。異星で異星人に飼われる人間という、画のインパクトの割には至ってシンプルな題材で、あまり裏切られるところはない。乳児の段階で親を戯れに殺され、その子供が育つところがメインの筋になるが、それと同時に異星人の生態というのもカットバック的に入ってくる。異星人が「瞑想」をすると、赤い眼球の黒目がなくなり、眼前に赤い球体が生じ、その中に自分のミニチュアが入って、宙を舞う。また、食事は黄色い雲のようなものから排出されるものを食っている。別の種類の「瞑想」により、四人の中年男性の異星人の自他の境界があいまいになる。このあたり、東洋的瞑想に対する憧れのようなものも読み取れる。この映画は総じて未来というものを想像していて、一番大きい時代におけるSFはこういった未来を指向するものだったが、これは当時における未来である。それを強く感じるのがBGMだった。BGMは、当時の映画音楽のディティールを隅々まで残していて、いくら映像が異様であっても、聴きなじみのあるアニメ映画の音楽という感じを受ける。時代に規定されつつ、未来を表象しているといえば一番近いのだろうか。現代においても、似たり寄ったりのことしかできないだろう。自分の住んでいる時代から超え出るということは、誰にもできないのだろうか。個人的になればなるほど、その規定に縛られるということも、ありそうな話だ。