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【日記】純粋理性批判

 カント『純粋理性批判』を、連日読んでいる。
 今読んでいるのは、上中下巻のうち上巻、半ば過ぎだからまだまだ最初の方で、「知覚の先取的認識」のあたり。
 カント的な世界の見方に、少しは慣れてきたところだ。

 知覚は、まず人間にどうやってくるのか、という所。カントは、人間が認識する一番最初の段階には、知覚自体は存在しないと捉える。何があるのかといえば、もう口が酸っぱくなるほど出てくる、「ア・プリオリ」なもの、それがなければ人間の頭の中に何も存在できないところの、時間と空間である。
 頭の中に、架空の、いわば何もない時間と空間があって、そこにあらゆる知覚(=直感?)を配置することによって、人間は世界を認識する。
 たとえば触覚とか、視覚などという感覚それ自体は、それぞれに連関がなく、意味をなさない。たんなるバラバラなものの集合である。
 だが、その知覚は、世界を知る為の最初の材料であることには変わらない。
 知覚は、どういう性質を持っているのか。それが、「知覚の先取的認識」の章で説いていることだ。
 いわく、「それは度合い=量を持つ」。
 人間は、感覚しないものを認知することはできない。無を知ることは出来ない。感覚があるからには、その強さが僅少なものから巨大なものまで、スケールができる。その度合いを、知覚は所有しているのだという。
 で、これ以外のことは特に語らず、次の「経験とはどう存在しているのか」などの章に進んでしまう。
 要は、感覚とか知覚とかにはそれほど重きを置いていないように見える。「ア・プリオリ」な、時間と空間については、前の部すべてを使って説くくらい、念入りに取り扱っている。人間の中にある素材があって、問題は、どんな素材があるとか、それぞれがどう機能するのかということではなく、もともとどんな空間がある所にそれが配置されるのか、どう処理するのか、といったあたりを、そこまで考えずともいいのに、と、普通の人なら思ってしまうくらい考え抜く、というところに、どうやら、カントの哲学のありようがあるらしい、という所まではわかった。

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