【日記】熱意の消失?
これは何回かに分けて書きたいのだが、先日、前の職場の仲間、自分を合わせて七人で、泊りがけの旅行に行く機会があった。なかなかこの人数、社会人になってから、旅行に行くなんていうことは難しい。それぞれ、そこまで変わった人でもないのだが、いや、職場に忽然と居たら、それぞれに変わっていると言いうるのかもしれないが、それでも日常性を超えるほどのものはない。ないのだが、何だか、その時のことをことあるごとに振り返る、それぞれ、時間の浅い深いはあっても、付き合いが十年近くになる。年月と、人という存在の掛け算が、「普通の人」という価値観を揺さぶるような感じがあった。
その旅の中で、そのうちの一人と、夜な夜な寝ずに話した。何か、熱心に話を聞いていたというのでもない。いや、相手がかなり熱心に追いかけているアイドルがいて、そういう誰かが前後不覚に語るのを聞いているのが僕はむしょうに好きなので、だがその対象となるアイドルやら何やらに関しては無知だし強い興味があるわけでもないので、かれの熱心さの度合いを見るような気分で、話半分で聞き続けていた。話が終わりそうになったら、自分が今聞いた話を継いで、呼び水みたいにして質問すれば、また熱心に話し出す。彼で実験をしているような所さえあった。
彼は、そのアイドルグループを、ギリギリ全国規模で有名になる境目の所で追いかけるようになった。その頃から、そのアイドルは、握手会など、ファンと直接一対一のようにサービスをすることをやめてしまった。もし、もう少し早くそのアイドルのことを知っていれば、握手会に参加することが出来た。それが彼にはものすごく惜しいことであったと、話の合間に何度も繰り返した。
さて、自分には、それほどに熱心に追いかける人があっただろうか。アイドルなんていうものはぜんぜん知らなかった。自分は、小説家や、ミュージシャンに置き換えると、ものすごい熱意をもって聞いていた人はいたが、それらの人と直接一対一で話したりすることを望んでいたかというと、そうでもなかったような気がする。
いや、それは、現在の感情を伴った主体が振り返るので、そう思うだけかもしれない。振り返ってみると、決定的にそれを諦めるきっかけになるものは、あった。
保坂和志と岡田利規の、何のきっかけだか忘れたけれども、対談を公開で行う催しがあった。どちらもものすごく書き手として尊敬していたので、ぜひ見に行きたいと思って、実際に行った。
保坂和志は、その時骨折とまではいかないくらいの足の怪我をしていて、足を伸ばしながら椅子に座った。
二人とも、その時どんな話をしていたか、あまり思い出せない。
最後に、聴衆の質問を受け付ける番があって、その時保坂和志は「遠い感触」という、デビッド・リンチの映画を中心として、彼独特の巡りながら書くような文章を連載していたり、「未明の闘争」という連載をしている時で、その二つの内容がなんとなく関係しているような気がしていたので、手を挙げてそのことを本人に質問したら、「そんなことはぜんぜん考えていなかった」、と、それほど否定的ではないが、そっけないような調子で返事があり、次の質問に移った。
その時、いくら自分が読み込んだ結果を作者本人に話したとしても、その時点での関心の輪が同じ場所にあるわけではないので、あまり得るものはないのだな、理屈でいえばそのような感じだけれども、単に恥をかいたような気分にもなっていたらしい、そのことがあったので、以後、作家に話を聞いて有益なものが得られるという幻想は抱かないようになったのだ、と思う。
アイドルを追いかけている彼は、単に性欲に隣接するような感情で、その直接的体験を追いかけて、惜しんでいるのかもしれない。それは措くにしても、何かの熱意があって、誰かを対象にして、遠征という、具体的な行動に起こしているような様子を見て、うらやましいような気分になった。
話し終わったら、明け方の四時になっていた。