【日記】寿橋
寿橋と曙橋を間違えた。ほんの言い間違いのようなものだ。実際には寿橋に行った。欄干に、かなり腐食されてはいるが、判読できないほどではない、刻字で寿橋と書いてあった。石が腐食するほどだから、相当の年月が経っているのだろう。寿という字も、古い「壽」という方で綴ってあり、文字の方向も、今とは逆の右から左に流れるタイプの横書きだった。それらのこともあり、文字としての形象としての印象が少なかったのかもしれない、何となく頭の中に難しい字と「橋」の印象があり、それを想起して発語したので、曙橋と間違えてしまったのではないか。また、曙橋というフレーズは、それほど度々ではないけれども、都営新宿線の駅の一つとして、車内アナウンスで何度か聞いているから、音声としての印象は強かったのかもしれない。
横で写真を見ていた妻が、その訂正をした。僕が曙橋だよ、と言ったら、寿橋って書いてあるよ、と。とある用事があって、そこまで写真を取りに行ったのだ。自転車で、一時間以上は漕いでいたと思う、距離にして二十キロ。買った自転車を最大限に活用したいので、休みの度にある程度の距離、走るようにしている。前に書いたと思うが、もともとのセッティングだと前傾姿勢がきつすぎて、腰を痛めた。なので、ハンドル部分に改造を施してもらったのだが、それでもまだ少しだけ前傾になってしまい、腰も少し痛めた感じがある。一説に、腰痛というのは本当は存在しなくて、腰痛があるという思い込みが、幻想の痛みを発生させていると聞いたことがある。ネットラジオで、たぶん十年以上前になる、そこで聞いたことで、眉唾だけれどもどこか説得力があるので、今まで覚えていたのだろう。だが、改めてその情報の妥当性を考えてみると、どうしても信じられない、重いものを持って、あるいは変な姿勢が続いて、その結果として腰を痛めるということは、厳然としてあるのであって、行動の結果であるのならば、幻想だとはどうしても言えないはずだ。
だが一方で、腰痛に限るのではなく、痛み全般に対する、一度味わってしまった後で幻想的に発生してしまう恐怖心みたいなものは、やはりあるような気はする。紙で指先を切ってしまった。ものすごく痛く、何より紙という日常的などこにでもある道具で、ここまで治りの悪い怪我を負うということが、意外なようでもある。しばらくして、傷は治ったけれども、今度は紙を取り扱っている時に、ふとその紙が横にずれること、前に負った傷のことがフラッシュバックして、紙を持っているだけでその痛みが戻って来るような気がする、というのは誰しも味わったことがあるのではないだろうか。どこの痛みでも、似たような現象はあり得る。
自分も、自転車に乗る時に、仮想の今後生まれるかもしれない腰の痛みを先取りして、痛く感じているような気がしなくもない。人間の感覚というのはかくも適当なものだ。