【日記】時計
仕事の都合で腕時計をつけなければいけない、というかあったら便利になるということで、腕時計を買い、ほとんど毎日つけている。
この時計は、一秒ずれることはあっても二秒ずれることはない。
時計を買った時に驚いたのだが、精神の奥底に眠っていた、時計を合わせるということに対する自分の執着が、ふつふつと復活してきたのを感じた。
別に悪いことでもない。
小学生の中頃だったと思うが、当時流行っていたゲームウォッチというのを買ってもらった。デジタル時計なのだが、ごく少ないピクセルで、棒人間みたいなものが動くゲームができる。家はゲーム機で行うゲームが禁止されていた。ゲームウォッチのゲームが、自分が出来る唯一のゲームだった。ルールは、ジャンケンに毛が生えたようなものだった。相手はランダムなのだが、どうも出現頻度が極度に偏っている。ジャンケンでいえば、グーの次はほとんどチョキで、その次はパーであり、その後またグーに戻る。なので、先回りしてパーグーチョキの順番で出していけば、それが裏切られたとき以外はほとんど勝つことが出来た。
今思えば何が面白かったのかわからないが、ボタンを押して勝ち進んで勝利を収めるということ自体に喜びを感じていたのだろう。
そして、腕時計なんてものを重宝するような生活は当然送っていない。が、時計がある、時間が正確である、ということが、何の理由もなくただ価値のあることだと刻まれていた。一日一回、それほどやる必要がなくても、電話の時報を聞いて、自動音声で流れて来る秒数がちょうどに来るまで待って、ジャストの所で時間セットのボタンを押す。一日正確な時刻を指している。そのことに倫理的正義ともいえるような喜びを感じていたのかもしれない。
手首周りが邪魔だし、何分という時刻が重要な仕事を前はしていなかったので、腕時計をつけない時期が十年近くあった。
それが、時計を持った瞬間に十年の時間が無くなり、時計合わせの偏執的根性がよみがえってきた。人間不思議なものだ。電波時計は買わなかった。卓上の時計としていくつか電波時計を買ったのだが、なぜか合わなくなって、電波時計はマニュアルで時刻を合わせる機能がなかったり、電波が時刻を合わせるということにあぐらをかいて、中の時計機能自体が正確ではなかったりするので、信頼しなくなった。時計を合わせるのが面白い。倫理的に正しいと感じる。なんだそれ。