【日記】5/5-5/7

武蔵野

 国木田独歩の『武蔵野』を読み進めている。
 文語と口語が、地の文とセリフの使い分けも含めて、順列組み合わせ的に使われている。
 地の文……文語、セリフ……文語
 地の文……文語、セリフ……口語
 地の文……口語、セリフ……口語
 このような感じ。だが、今順列といったけれども、地の文が口語であるにもかかわらず、セリフが文語であるというのは、ちょっと考えにくいから、おそらくパターンはこの三つだろう。さらに、冒頭の「武蔵野」は、小説というよりは、武蔵野という土地に対する著者の思いを書いているみたいな文章なので、セリフがない。
 柄谷行人の『日本近代文学の起源』において、『武蔵野』、とくに「忘れえぬ人々」という一篇の短篇を、少し過剰にも思えるくらい特別視している。ちょうどここを境にして、口語文による小説が確立されたと。形式上のはじめは、有名な二葉亭四迷の『浮雲』であるけれども、そのときは著者の筆が馴染んだ状態での語りではなかった、「忘れえぬ人々」は、はじめて、口語がそれと意識されずに書かれた小説である、つまり、真の意味で我々の世代で書かれた小説と地続きになっているはじめての小説だ、と。かなり意訳というか自分の解釈が入っているけれども、おおよそそんなようなことが書かれていた。
 取り扱われている「忘れえぬ人々」だけを読んでみても良かったのかもしれないが、自分なりに感じるところもあるかもしれないと思って、『武蔵野』全体を読んでみようと思って読み進めた結果、先のような組み合わせが見えてきたというわけで、思いの外、文語を使っている小説も多かったことに少し驚いた。だが、もっと驚いたことは、この国木田独歩の使う、小説としての文語、描写が驚くほど美しい。何だか、まだるっこしい感じというか、文語独特の表現の重さみたいなもの、それが全然感じられない、全然というと言いすぎかもしれない、それから、自然の描写が深い。川の流れを眺めていて、木の葉が深い川の流れの渦に巻き込まれていく、というところなど、不思議に映像喚起力がある。

 林あり。流あり。梢よりは音せぬほどの風に誘はれて木葉落ち、流はこれを浮べて走る。青年あり、外套の襟に頸を埋め身を縮めて眠れる、その顔は青白し。四辺の林も暫時はこの青年に安き眠りを借ばやと、枝頭そよがず、寂として音なし。流には紅黄大小数々の木葉、乍ち来たり乍ち去り、緩やかに回転りて急に沈むあり、船の如く浮びて静かに流るるあり。この時の空、雲すこしく綻びて梢の間より薄き日の光、青年の顔に落ちぬ、……

国木田独歩『武蔵野』、「わかれ」岩波文庫、69

 これが該当箇所。文語は、漢語を使っている所から、別の言語が流入する感じがあるのと、短い言葉にギュッとイメージが詰まっていると、よく感じる。国木田独歩が、文語でも口語でも同じ能力を発揮できたのではないか、といったようなことを言いたいのではない。国木田独歩は、文語で小説を書いている時から、当時の枠に収まらない言葉とイメージの関係を探っており、その力がだんだん溜まって来て、口語文を書いた時に、特別なものが発揮されたのではないか、などと想像した。まだ半分ほどしか読んでいないけれども。

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