
14日間だけでも家族になれる話
「手袋が消えた!」
ヤンチャな少年が、真面目な少年の手袋を剥ぎ取って、片方だけ捨てた。
映画「ホールドオーバーズ 」の一場面だ。
1970年、ボストン近郊にある名門バートン校。
年末に、家庭の事情で寮に居残りになる孤独な少年たち。
雪が積もった広場で彼らが戯れている最中のワンシーン。
「わざと片方だけ捨てたんだ。
より惨めな思いをさせるため。」
手袋を片方だけすると、一方は暖かく、一方は冷たい。
比較によって冷たさが際立つ。
家族との暖かいイメージを知っているからこそ、
家族といない自分が惨めに思える。
最初から暖かいイメージを知らなければいいのに。
彼はこの後、片方だけ手袋をした両手を眺めて、泣きそうな顔をする。
しかし突然走り出し、残った手袋を勢いよく川に投げ捨てた。
その潔さが、
ずっと心に残っている。
私もここ6年ほど年末年始に帰省してない。
実家には母が一人住んでいるが、気難しく未だにコロナを怖がって人を寄せつけない。実家に泊まることが許されないので、私は都内で猫と過ごしている。
クリスマスとお正月は、街中が家族のための大切な時間をアピールしてくる。
その当然のような振る舞いを白々しく感じていた。
この映画では、教授と男子生徒、料理人の女性3人が思いがけず年末年始を学校で過ごすことになる。
年齢も性別も立場もバラバラ。最初はお互い反発し合うが、そのうちダメな自分を曝け出し、心を通わせていく。
たった二週間だけだが、家族のように、いや、家族以上に心を通わすことができていた。
最後は別れ、お互いの道を進んでいく。
この軽やかさが、
これからの家族の形なのかもしれないと感じた。
家族とは、
住居で寝食を共にし、気負わない自分を曝け出し、
愛情をもって接し合う存在。
血が繋がっていないと、
契約を交わさないと、
なれないものではない。
未だに、陳腐化した「家族」という概念が
年末年始に根強く残っている。
その時その場所で、居合わせた人と心を通わせ、
別れる。
そしてまた、たどり着いた場所で出逢った人々と心を通わせ
また別れる。
そしてまた出逢う。
永遠である必要はない。
自分が進む先に出逢った人と、その一瞬、心を通わせ別れていく。
この刹那的な時間が、今までの「家族と過ごす安心感」と同等のものをくれるのではないだろうか。
いくら家族でも心の通っていない関係性は安心を生まない。
たとえ他人でも、心の通った関係性は安心を生む。
結婚している。未婚。子供がいる。いない。
家族がいる。いない。
男。女。年齢。職業。立場。地位。
なんでもいい。
ある瞬間、ある場所で偶然出逢い、
本心で語り合うことができれば、
幸せを感じられるのだ。
それが、
明日を生きる希望になるのだ。
その希望を
繋いで、
繋いで、
繋いでいって、
最期の日までお互いに生きるのだ。
「わざと片方だけ捨てたんだ。
より惨めな思いをさせるため。」
幸せなイメージに執着することをやめ、
今目の前にある人々との繋がりを大切にする。
出逢う人を新しい家族のように、
共に心を通わせたいものだ。
どの瞬間の出来事も
いつでも素手で掴める自分でありたい。