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形式化、形象化、そして形骸化
『ホモ・ルーデンス』において「形象化」という言葉が特殊な意味を込めて使用されているという印象を受ける。
この記事ではその点を掘り下げて考える。
語義
原書を確認したわけではないが、本書で用いられている「形象化」という言葉は、オランダ語ではbelichamen、英語ではembodyに該当する単語が翻訳されたものであろう。
embodyの意味は「(思想・感情などを)(芸術作品・言葉などで)具体的に表現する、具体化する、 体現する。(精神に)形態を与える。」というものである。
日本語における「形象化」の意味、すなわち「思想や感情など観念として存在するものを,何らかの手段で形にして表し出すこと」は、なるほど翻訳としては適切であるといえるだろう。
ではなぜ翻訳者の高橋英夫はbelichamenを「具体化」ではなくてあえて「形象化」と翻訳したのであろうか。
これをより一般的な語彙において改めて解釈してみようと思う。
形象化とは具体化であろうか。一見「embody」の意味に引きずられて具体化であるように思えるが、そうではない。頭の中の発想を余すところなく完全に言語化(あるいはイメージを音や造形物などに)するのは到底不可能だ。必ずある部分は捨象されたり、あるいは既にあるものに置換されたりして実際に現実化される。
では、形象化は抽象化であろうか。
明らかに具体化である場合と明らかに抽象化である場合の両方がある。完全にどちらかであるとは言い切ることは出来ない。
形象化を通して抽象化する場合、擬人化や比喩・暗喩、発想した人物の属する文化での慣用表現などを用いてその人物の感覚をやや優先して表現がなされる。
形象化を通して具体化する場合、注目する対象を事細かに描写する、あるいは“注目しない対象”を“描写しない”ことによって間接的に発想した人物の感覚を浮かび上がらせる。
それでは、形象化とは認識した物事をそのまま言い表すだけのことなのか。これもまた違う。詩や歌は明らかに認識した物事と、それを認識した人物の感覚を圧縮するように表現している。
どうやら形象化とは、抽象・具体といった分類ではうまく説明できないようだ。表現する人と表現の受け手を媒介するものを現実化する、という点では「圧縮する」という言葉は当たらずといえども遠からずである。もう少し踏み込んだことを言うために、圧縮されたものを再び展開してみよう。
本論
・形象化プロセスの導入
形象化をより時間的に幅のある現象として捉え、段階を分けてその推移を見る。
発想 → 形式化 → 再生 → 形骸化
誰かがある発想をする。(発想)
その発想を言葉ににして確定する。(形式化)
別の誰かがそれを読んで想起する。(再生)
その言葉から想起されるものが確定されていく(形骸化)
ここで確定することを強調したのは、それが重要な遊びの要素を導く前提であるからだ。
・「鋳型と鋳造」の比喩
まず発想。これを鋳型をつくるための型、つまり原型(げんけい)としよう。この原型は発想した本人にも、じつはあまり鮮明にイメージされているわけではない。細部はおぼろげで、ところどころ柔らかく、まだ変化の余地がある。
そして形式化。原型を元にして鋳型をつくるのが形式化である。
原型を精確に鋳型にするにあたって、あいまいであった細部をはっきりと定める必要がある。後から変更はできない。こうして確定した鋳型が作られる。
次に再生。こんどは鋳型を元にして“原型と似たようなもの”(つまりコピー)を鋳造する。鋳造する(再生する)側の、熱くドロドロとした感情や思考や言葉が型へ流れ込み、徐々に形がかたどられていく。
鋳造されたものが原型とは似て非なるものであることに留意せよ。鋳造する人によっても、鋳造されるものは少しずつ違っている。
最後に形骸化。再生は繰り返される。コピーがあふれ、飽和する。
「この鋳型から鋳造されるものは、こういう物だ」という認識が共有される。いわゆる使い古された紋切り型の表現や固定観念と呼ばれるものがこれに当たる。
この、再生が繰り返されて形骸化する、という点において強力な遊びの要素を見出すことができる。
「この反復の可能性は遊びの最も本質的な特性の一つである。」『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ 中央公論社 34ページ
人口に膾炙することによってある発想が広まり共通認識となるのは、一般化といっていいのかもしれない。しかし、ここで形骸化と表現しているのは、曖昧さ、ゆらぎ、おぼろげな雰囲気といった遊びの余地が、徐々に硬化し削ぎ落とされて意味が収束していく様子を強調しているからだ。
「(四)未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由が必ず遊戯者の側に残されていなくてはならない。」『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ 講談社学術文庫 40ページ 遊びの定義より
ある発想、ある言葉が形骸化したあと、新たなニュアンスを獲得して意味が変化することもある。これを上記の比喩で解釈すると、再生が繰り返されるたびに再生された(鋳造された)ものを新たな原型として用い、微細な違いのある鋳型が作られる。これを“繰り返す”うちに微細な違いが蓄積して最終的な鋳造物が大もとの原型とは異なった形になる、ということであろうか。(語義の変遷はこの記事の焦点ではないためこれ以上は踏み込まない。)
結論
これによって形象化とはどういう事であると言えるのか。
形象化とは、認識主体のイメージを(言葉として)形式化し、別の認識主体のなかで“再生されやすい形”を選択することだ。
会話、手紙、詩、小説などの言語表現を読む人、音楽や映像の視聴者、料理を食べる人、ゲームであればそのプレイヤー、あらゆる表現は受け手のなかで狙った“再生”をさせるためにあらん限りの巧妙なテクニックを駆使して構築される。
表現したいと強く思うほどの発想を原型としてイメージし、それを微に入り細を穿ち鋳型として形式化する。
表現者のまさに思うところのものを、その受け手が「再生(プレイ)する」=(想像力を流し込んで)鋳造する。
この過程こそが形象化だ。
既に形式化されたものを組み合わせて、鋳型をつくることはできるだろう。しかしそれは形象化ではない。表現するイメージという原型がないのに、鋳型を作ったところで鋳造されたものに何の意味があろうか。
必ずしも「再生されたもの」が元の発案者の発想と同じものではないことに留意せよ。
たとえば二人の人物が同じ文章を読んだとしても、二人の理解、感じた印象は厳密に比較することが出来ないし、まったく同じ理解をし、同じ印象を受けたとは言えない。当然それは文章の書き手と読み手の間でも同様のことが言える。
これが「受け取る相手によって文章の意味が変わる」ということであり、「異なる視点から物事を見る」ということだ。
「不完全な再生」、すなわち異なる解釈の仕方をされるというのは表現者にとっては失敗、敗北であるように思われるかもしれないが、個人的にはそのようなイレギュラーな事態もまた遊びにはつきものであるし、表現特有の面白いところではないかと思う。
先に引用したカイヨワによる遊びの定義の一つ、「未確定の活動」の言わんとする所は、「やってみるまでは、受け手によってどういう再生(プレイ)をされるのかどうかわからない」という一回性の賭け事に近しい性質を遊びはもっている、ということだ。
(賭けるということには緊張が伴うが、緊張もまた遊びを際立たせる重要な要素の一つである。)
まとめ
・時間的に圧縮されている形象化
・繰り返しのリズムとハーモニー
・形象化は“再生されやすい形”を選ぶこと