『ホモ・ルーデンス』考察3
第一章 文化現象としての遊びの本質と意味
前回に引き続き一章を考察する。通底する裏テーマ、普遍的な遊びの形式など、重要な部分が並んでいるので緻密に読んでいく必要がある。
・自立的な範疇としての遊び
一般的に、遊びは真面目の反対に位置している。ひとまず目下のところ(いままで述べた)遊びの概念と同様にこの対立は他の概念へ置き換えて還元するのは不可能である。
しかしこの対立を詳しく見ていくと、「遊び―真面目」という対立は決定的でも固定的でもない。遊びとは「真面目ではないもの」(真面目の否定)、真面目の反対であるということは一応できる。だが、これでは遊びの特性について何一つ積極的な内容を述べていない。しかも反駁もたやすい。「遊びとは『真面目ではないもの』である」というかわりに「遊びとは本気ではないものである」と言ってしまうと、対立を失ってしまう。なぜなら遊びも本気で行われることもありうるからだ。
(この「遊び←→真面目」という関係をめぐる思索は、本書の裏テーマ、縦糸、背骨といっても過言ではない。この関係については個別に記事を書いてなぜこのようにに拘泥するのかを分析したい。)
くわえて、遊び以外にも「真面目ではないもの」という概念に含まれるものは我々の生活の中でよく出会うが、それは遊びの概念と重なるところがほとんど無い。たとえば笑いは、ある種「真面目の反対」ではあるが、遊びとは無条件に結びつくものではない。遊んでいる最中の子供、試合中のスポーツ選手は特に真面目のさなかにあり、笑いの気配など微塵もない。
ここでホイジンガはアリストテレスを引用し、(遊びという重要な機能を共有しているのにかかわらず)笑うということが動物にはなくて人間特有のものという部分に注目している。
また同様のことを滑稽についても言うことができる。滑稽も「真面目ではないもの」の概念に含まれ、ある点では笑いとも結びつく。滑稽は笑いを誘い出すのだ。
しかし、滑稽や笑いは遊びの副産物でしかない。遊びは滑稽ではない。笑いを呼ぶ道化師の滑稽な身振りは、ただ広い意味で遊びと呼べるだけだ。
滑稽は痴愚とも結び付きがある。だが遊びは愚かしくない。遊びは賢愚の外にある。
遊び、笑い、戯れ、諧謔、滑稽、痴愚などの表現は、遊びの特質――より根源的な観念に還元することの不可能性――をどれもみな共有している。これらのことの根本原理は、われわれの心の本質の中でも特に奥深いところに根ざしているのだ。
以上のように、遊びとそれによく似たものをはっきり区別しようとすればするほど、遊びの独立性が際立ってくる。遊びを大きな範疇的対立(いわゆる「真面目なもの」と「真面目ではないもの」の対立)から切り離すことで、議論を前に進めることができる。
遊びは賢愚の対比の外にある(賢さを競う遊びはあるが、必ずしも賢さは遊びに必須ではない。一見無謀とも思える行為が突破口を開くということも、賢しらに策を弄する側が自滅することもよくあることである。単純な賢愚の対比は遊びにおいて無効化されてしまう)が、同様に真偽、善悪の対比の外にある。
(クイズなど真偽を競う遊びがあるが、真偽を判定することは遊びに必須ではない。善悪の対比についても同様。トランプを使用した「ダウト」という遊びは自分の手札を宣言しながらなるべく早くすべての手札を捨てようとする。この遊びでは虚偽の宣言をしたほうが有利であり、相手が嘘の宣言をしたと思った場合、ダウトと言いその捨てた手札が宣言通りの数字か確かめることができる。しかし真偽の判定は必須ではない。嘘の宣言であると見抜きつつ、自分の手札が多く捨てられそうであればそのまま見過ごすという戦術も当然ありうる。そして日常では悪徳とされる騙すという行為はこの遊びのなかで多用されるが、善い悪いという判断はまったくされない。)
このように遊びは真にも善にも容易に結びつかない。では美はどうであろうか。遊びそのものに美という属性が備わっているわけではないが、あらゆる種類の美の要素と結びつこうとする傾向はある。運動する人体の美は、遊びのなかにその最高の表現を見出している。また、比較的複雑な遊びにはリズムとハーモニーが織り込まれている。遊びはいくつもの硬い絆によって美と結ばれているのである。
(ホイジンガは遊びの中で特に詩と音楽を重視しており、とくに音楽の要素のうちリズムとハーモニーを至高のものと捉えている節がある。上述した文では省略したが、「『およそ人間に与えられた美的認識能力のうち最も高貴な天性である』リズムとハーモニー」という恐ろしく仰々しい修辞が用いられているのがその証左である。音楽については第十章で滔々と語られている。)
・遊びの形式的特徴
ここでホイジンガは、改めて遊びの独立性を強調する。
遊びという概念は、注目すべきことに、それ以外のあらゆる思考形式とは、つねに無関係である。
しかし、それでは遊びについて何も言えなくなってしまう。そこでさしあたり問題を制限し、遊びの主要特徴を述べることにする。
分析に都合の良い点もある。遊びと文化の関連という問題は、この世にある全ての遊びを取り扱わなければならないというものではない、ということだ。主に社会的な遊びだけに限って考えることができる。あるいは、比較的高級な形式の遊び、とも言い換えられる。
それらは、乳児や動物のこどもによるごく単純で原始的な遊びより、叙述は一層たやすい。それらは形態から見ればより発達し、はっきりと組織されていて、明瞭な特徴を帯びている。それにもかかわらず、原始的な遊びを定義する際には到底分析を受け付けないような「純粋な遊びそのもの」という性質に、ただちに突き当たることになる。
以下、さまざまな形式の遊びを語ることになるが、その際にとりあげる特徴の中には遊び一般にひろく関連をもつものもあるし、そのほか特に社会的な遊びについてだけ該当するものもある。
(若干説明が冗長であるため、箇条書きにした上で重要な部分は掻い摘んで説明をつける。)
①自由
すべての遊びは、一つの自由な行動である。
命令されてする遊びなどは、遊びではない。それは押し付けられた遊びの写しでしかない。
②日常生活との隔絶
遊びは「日常の」あるいは「本来の」生ではない。
遊びはそれ固有の傾向によって、日常生活からある一時的な活動の領域へと踏み出していくものである。
③非生産的
遊びは必要や欲望の直接的満足という過程の外にある。
それは欲望の過程を一時的に停止させると言っても過言ではない。
また、遊びは直接的な物理的利害の、生活の必要の、個人的従属の外におかれている。
④時間・空間の制限
遊びは定められた時間・空間の限界内で「プレイ」されて、その中で終わる。また、遊びは反復される。(ふたたび『リズムとハーモニー』への言及。反復の可能性については「形象化」についての記事で詳しく論じる。)
⑤ルールの支配
遊びは秩序そのものである。それに付随する緊張の要素は遊びの中で特に重要な役割を演じている。「遊び破り(スポイル・スポート)」への厳しさとイカサマ師への寛大さ。
(ロジェ・カイヨワ著『遊びと人間』においては、これらの定義の他に「未確定の活動」が加えられている。カイヨワはホイジンガに対し批判的に論じるスタイルであるが、遊びの定義についてはほぼホイジンガのものを踏襲している。)
・遊びという特殊世界
ホイジンガは、遊びの形式的特徴をまとめて以下のように述べている。
「その外形から観察した時、われわれは遊びを統括して、それは「本気でそうしている」のではないもの、日常生活の外にあると感じられているものだが、それにもかかわらず遊んでいる人を心の底まですっかり捉えてしまうことも可能な一つの自由な活動である、と呼ぶことができる。
この行為はどんな物質的利害関係とも結びつかず、それからは何の利益も齎されることはない。
それは規定された時間と空間の中で決められた規則に従い、秩序正しく進行する。またそれは、秘密に取り囲まれていることを好み、ややもすると日常世界とは異なるものである点を、変装の手段でことさら強調したりする社会集団を生み出すのである。」(42ページ)
まとめ
・「遊び―真面目」の関係は固定的ではない
・遊びの独立性
・遊びの形式的特徴(身近な遊びに当てはまるか考えてみよう)