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形象化プロセスから形象化プロセッサへ

形象化プロセスと似た考え方

 「鋳型」と「鋳物」の比喩で説明すると、形象化とはオリジナルの形象から鋳型をつくり、鋳型をやり取りして、別の鋳物(形象)が作られるというプロセスではないか、というのが上記の記事の主な主張であった。

 形象化プロセスに似た考え方は、他の分野にもすでにある。
ソシュールの言語学における「シニフィエ」と「シニフィアン」もその一つだが、私が確認した範囲の中で最も形象化プロセスと近しいのが、
コンピュータサイエンスのなかのオブジェクト指向プログラミングにおける「クラス」と「インスタンス」である。

 オブジェクト指向とはそもそもプログラムが膨大になり人間にとって認識しづらくなってしまった問題を解決するために提案された考え方である。
 基底現実(いわゆる現実世界)の無限ともいえる情報を処理して人間に認識しやすい形に再構成するのが形象化プロセスであるならば、これらの仕組みが似ていても不思議はない。

 「コンピュータ内のクラスとインスタンス」と「人間の認識における形象化プロセス」は相違点がある。
 コンピュータ内で前もってプログラムに記述されたクラスと、プログラム実行時に生成されるインスタンスというように、「コンピュータ内のクラスとインスタンス」の関係はクラス型が先行する。
 一方、「人間の認識における形象化プロセス」はインスタンスが先行する。インスタンスを人間が認識しようとする過程でクラス型が「後から」
作成される。(もしインスタンスが既知のクラス型であれば、そのクラス型のインスタンスとして処理される。)

 注意しなければならないのは、基底現実に「鋳型」「鋳物」、あるいは「クラス」「インスタンス」は存在しないということである。コンピュータ内の情報処理システムや、人間の認識のしくみとしては存在する。これは無限の情報量を持つ基底現実から、特定の情報を恣意的に取捨選択し処理しやすい形にするのが形象化プロセスだからだ。

形象化プロセッサ

 形象化プロセッサとは、「形象化プロセスを実行し続ける主体」である。一般的には意識、主観、心、人格、などが該当するであろう。

 オブジェクト指向プログラミングにおけるバーチャルマシン(VM)に近いか。(VMは中間コードをCPUに実行可能な形式に変換するのみであり、実際のプログラム実行はCPUが行っている。ここではVMとCPU両方の機能を持つものを形象化プロセッサと捉えている)

 形象化プロセッサは、継続的に意識上へ基底現実と似た世界(厳密には異なる)を形象化し続けている。ここで新たに何かを知覚したとすると、基底現実から取捨選択して得られた情報は脳によって加工され、あるインスタンスとして認識される。すると形象化プロセッサは意識上の「世界」にそのインスタンスを上書きし、全体を更新する。

 これらの過程が連続して行われることで外界の認知が保持される。また、一つだけではなく複数のインスタンスを同時並行に認識することもできる。
 特に注意を向けられた対象に関連するインスタンスは更新の頻度が多く、それ以外のインスタンスは更新の頻度が少ない。

ヤージュニャヴァルキヤに追いつく

・参考文献

 『ホモ・ルーデンス』においても若干言及があった大賢ヤージュニャヴァルキヤだが、それは有名なエピソードであって哲学的な関連ではなかった。しかし、形象化プロセッサという「自己」にまつわる議論になると話は違ってくる。

 形象化プロセッサをまた別の言い方で表現するならば、「アートマン」と言える。形象化プロセッサは自己イメージを形象化して間接的に認識することはできるが、形象化プロセッサは形象化プロセッサ自身を直接認識することはできない。

 カメラはそのカメラ自体を映すことはできない。カメラでそのカメラ自体を映すには、鏡や過去に撮影されたそのカメラが被写体の映像を映さなければならない。しかしそれは間接的であって、映したものは本当のカメラ自体ではありえない。

 ウパニシャッド哲学の緻密な理解があるわけではないが、紀元前600年頃のヤージュニャヴァルキヤに多少なりとも追いつくか、少なくとも背中は見えるようになったと言って差し支えないであろう。

おわりに

 まさか遊戯論がオブジェクト指向プログラミングにつながるとは思わなかった。「形象化プロセッサの自己形象化」「チューリングマシン(オートマトン)としての形象化プロセッサ」など、まだ調査と論考が足りない部分があるが、後々まとまったら記事にしよう。

 また、「スコープ」の話も省略した。形象化プロセッサが生成した世界のスコープでは「クラス」も「インスタンス」も存在するが、基底現実であるグローバルスコープにおいては「クラス」も「インスタンス」も存在しない、というような説明を想定していた。

 フォン・ノイマンがどこまで考えていたのかは定かではないが、コンピュータは人間の脳や認識の仕方と想像以上に似ている。ノイマンが亡くなる直前に計算機と脳について講義しようとしていたらしいので、ノイマン型コンピュータと人間の脳の類似は意図されたものだったのだろう。

 まったくもって奇妙な偶然というしかないが、ハンドルネームが「ブラフマ」の私が「アートマン」について語るなどと思いもよらなかった。ちなみに『ホモ・ルーデンス』を著したホイジンガも元々は古代インド文学史が専門だった。よほどインドと縁が深いとみえる。

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