『ホモ・ルーデンス』考察2
第一章 文化現象としての遊びの本質と意味
この章においてホイジンガは、もはや結論と言ってよいほど明確に新たな「遊び」概念について述べている。これより後の章ではその根拠と説明を行うなかでこれらの概念を繰り返し参照することになるので、ある程度は覚えておいた方がよいだろう。
・これまでの遊びの定義は不十分である
まず、ホイジンガはいままでの「遊び」の定義を不十分なものとみなし、遊びに対して有用性や合目的性を前提にする説明をピント外れのものとして批判する。遊びの本質とは、子供が夢中になり、賭博師が身を持ち崩すほどのめり込み、何万もの観客を熱狂させることであると断言する。
遊びの本質とは、「楽しさ」である。
遊びの「面白さ」はそれ以上還元不可能であり、どんな論理的解釈も受け付けない。それこそが本質であるという証明である、とホイジンガは主張する。
遊びは動物にも人間にも見られる現実であり、必ずしも理性的であるということはできない。特定の世界観や文明の発展度合いにかかわらず、現実としてそこかしこに繰り返しあらわれる。あらゆる抽象レベルにおいても、遊びは否定できない。遊びは普遍的である。
動物による遊びでさえ、不必要で余分であることにもかかわらず、そこに存在する。このことによって遊びを認めるのならば精神を認めることになる。
こう考えてみよう。もし動物が不必要で余分な行動をまったくせず、みずからにとって効率的な選択しかしないとするなら、なぜ遊びなどという過剰で余計な行動をするのであろうか。
それはそこに精神があり、それゆえ肉体的存在の限界を突き破って遊びが存在するからだ。人間においてもこれは同様であり、遊びという客観的に見れば余分で不必要なことが現実にあらゆるところで存在する。
動物は遊ぶことができるという事実により、もはや血と肉と骨、タンパク質とDNAの塊、単なる生体的メカニズム以上の存在なのである。
人間は遊ぶことができ、かつ、自分が遊んでいるということを知っている。だから我々は単なる理性的存在以上のものであり、宇宙における人間の位置するポジションの超論理的な性格を、遊びが存在することによって絶えることなく証明し続けている。
理性的存在が自覚的に遊んでいるために超論理的な存在だといえるのは、ひとえに遊びが非理性的なものだからである。
(理性的存在が自発的に非理性的な行動をしているということは、理性的であることと非理性的であることを自由自在に自覚しつつ行き来できるという恐ろしく超越的な性質をあらわしている。)
・文化因子としての遊び
ホイジンガは、あらゆる文化は遊びが先行するという。そして遊びは文化とともに並走し、くりかえしそこへ滲み出てきた。それらを生理学、心理学で還元主義的な分析を行なって、量的因子による説明をしたとしても、それは大して重要ではない。
重要なのは遊びをその具体的なかたちのまま、じかに観察することだ。遊んでいる人が自ら感じ取っているそのままに、その根源的な意味合いの中で理解しようとすることである。
(このような、「因果関係を特定し決定論的な分析をする」ということを避け、ありのままの遊びの形式を動的な循環として理解しようとする姿勢は、この後も繰り返し強調される。)
ここでホイジンガは「形象化」という言葉を用いて、イメージを心の中で操ることから遊びが始まると述べる。形象化という言葉は「思想や感情など観念として存在するものを,何らかの手段で形にして表し出すこと」というやや漠然とした意味であるが、彼にとって「形象化」という言葉はそれ以上に特別な含意を持つと言っていいだろう。
ここではまだその特別な含意について深く考察しないが、この単語に注意して読み勧めてほしい。
さて、古代の人間が共同生活をはじめたとき、その行動にはやはり最初から遊びが織り交ぜられていたのである。
その例として、言語がある。物理的実体、動作、感情など、ものごとに命名するということは必然的に抽象化を伴う。物を精神の領域へ引き上げる。
なぜこれが遊びであるのか。
それはものごとを抽象化するのに比喩を必要とするからである。喩えるものと喩えられるものの間には隔絶があり、これを結びつける飛躍として遊びの精神が深く関わっている。
この精神は素材的なものの命名から形而上的な事柄の命名へと、くりかえし遊びながら際限なく移行していく。どのような比喩にも言葉遊びが隠れているのである。
このようにして、人類は存在しているものに対応した架空世界を、文字通りまるごと創造している。
もう一つ例として、神話がある。より加工がすすんで、洗練されている。
どうして我々は存在するのか。どうして空は、大地は、海は、そこに在るのか。さまざまな物を神的なものという基礎に結びつけるために、神話という物語で存在を釈き明かそうとした。
この場合も同様に、自由奔放な遊びの心は冗談と真面目の境界の上を戯れている。どのような文化においても、創世神話は荒唐無稽な神々の悪戯で溢れかえっている。
最後の例として、祭祀がある。さまざまな神聖な行事、奉献、供犠、密儀は純粋な遊びとして行われていた。
(これら宇宙開闢論的な形象化にまつわる遊びについて、第六章 遊びと知識、第九章 遊びと哲学 にて詳細に論じられている。)
以上のように、「遊ビノ相ノモトニ sub specie ludi 」文化を見ることができる、というのがホイジンガの主張の大意であった。
そして彼は、そのような思想が世に広まった16世紀から17世紀の世俗的演劇が流行した雰囲気を称揚する。
しかし、この時期に習慣化した人生を舞台になぞらえるという着想はプラトン主義的な基礎に立っていた。道徳的な面に限って(人生と舞台を)比較する傾向があったらしく、旧約聖書諸書の一つ『伝道の書』にある「すべては空なり」という人間の諸相のむなしさを嘆くこと、つまり「人生なんてただの遊びなのさ…」という虚無感のうらがえし以上のものではなかった。
(つまり、イデアとしての舞台とその劣化物である現実の人生を対比するような、「(現実はこんなに虚しいものだけれども)舞台はなんと楽しく素晴らしいことか」という憧れ、期待、没入であったのだろう。)
ホイジンガは、遊びはそんなイデア的な理想に終始するものではなく、現実と遊びは混淆しあっていたという事実を示そうとする。遊びそのものが文化の礎のひとつであり、因子であると証明するというのだ。
まとめ
・遊びの本質は「楽しさ」
・「遊びそのもの」を見よ
・「形象化」から遊びは始まる
・現実と遊びは混ざり合っている
おわりに
長くなってすまない。でもちょいちょい補足をはさんで流れを追うとこれくらいになってしまった。いくら重要な部分とは言えこれでも第一章本文の四分の一以下の内容なので、次回以降はもっと省略をして巻いていこうと思う。京極堂の名台詞を引用してお終いにしよう。
「大人と子供の境界は呪術――言葉です。現実を凌駕する言葉を獲得したものこそを大人と云うのです」 講談社文庫『絡新婦の理』P1095より