命を思想的に理解することと実感的に獲得することとは別です

『滝落ちて群青世界とどろけり』 これは、水原秋櫻子(しゅうおうし)の代表的な俳句で、秋櫻子が62歳、昭和29年(1954年)に詠んだものです。これは素晴らしい命の完成を詠んでいます。詠んではいますが、水原秋櫻子自身は命を意識してはいないんです。松尾芭蕉が『名月や池をめぐりて夜もすがら』と詠んでいます。あれは水原秋櫻子と同じように芭蕉自身の実感を詠んでいます。名月を眺めている人間の実感というのは、西田(幾多郎)哲学で申しますと純粋経験の直下ということになるのでありますが。そのような心理状態は非常に神に近い実感があります。彼は月の光に心が照らされて彼の魂は一晩中月を巡っていたということなんです。芭蕉が本当に神がわかっていたのか。永遠の生命がわかっていたのか。彼はわかっていなかったんです。だから芭蕉には『旅に病んで夢は枯野をかけ廻る』というような悲痛な句が残っています。もし、永遠の生命がわかっていれば、そのような句を悲痛な句を残さなかったはずなんです。俳句の名人であっても、句として読んではいるけれど、自分自身は生も死も両方とも理解していない。ただなんとなく生きているんです。ただ何となく詠んでいる。人間の純粋経験ということ、芸術的な文学的な概念ということと生死の問題とは別の問題なんです。『滝落ちて群青世界とどろけり』と命のことを詠んでいるけれど、彼自身には永遠の生命の実感がなかったんです。彼は肉の思いで句を詠んでいたんです。霊の思いを彼は知らなかった。このように思想的に理解するということと実感的に獲得するということとは違うんですよ。思想的な理解というのは哲学の世界、芸術の世界、宗教の世界であって、これは文化概念です。本当の死という問題を解決することはできません。私ちは世界の宗教人や文化人がまだ経験しなかったような、重大な宇宙の真実、世界の真実に向かって勇ましく勉強しているわけなんです。


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